中世の旋法理論について少しまじめに勉強しようと思い、久しぶりに金澤正剛先生の『中世音楽の精神史』を読んでいて、以前には疑問に思わずにスルーしてたけれど、よくよく考えてみると自明でないあることに気付きました。
それは、ピタゴラスが耳に心地良く響く協和音程が数比で表現されることを発見する伝説に関するものです。
ある日のこと、鍛冶屋の前を偶然に通ったピタゴラスは、何人かの職人が打っている槌の音が共鳴して快い協和音を発していることに気付いた。
最初それはそれぞれの槌を打っている職人たちの力の入れ方であると考え、職人たちに槌を持ち替えて打ってみるように頼んだが、それぞれの槌の打ち手が替わっても、変わらなかった。
そこでさらに調べてみるうちに、音の高さの違いは、その槌の重量の違いと関係があることに気づいた。すなわちそこにはちょうど五本の槌があったが、他の槌と不協和音を生ずる槌一本を除けば、他の四本の槌の重さは次のような数比の関係にあることが解ったのでる。
12 : 9 : 8 : 6
これはボエティウスの『音楽教程』に出てくる有名な逸話で、後の理論書、例えばヨハンネス・デ・グロケイオの『音楽論』などにも引用される話です。
さて、ここで、最後に現れる数比 12 : 9 : 8 : 6 が、現代の科学的な理解ではそのまま振動数の比(正確には逆比)を表すことは、コンテクストから明白です。
ただ、今回私が自明でないと思ったのは、その
振動数が槌の重さに反比例するかどうかです。
例えば弦の場合なら、均質な材質でできてる弦で張力が同じであれば、(横振動の)振動数が長さに(したがって重量に)反比例することは物理的に正しいことです。
ただ槌の場合、材質が金属の塊で、弦とは振動の様式、というか従う運動方程式自体が異ります。その上形状が複雑なので、その分境界条件も複雑になります。仮に重さの比が整数比である異なる槌が相似な形であったとしても、それがそのまま振動数の比に一致するかは全く自明ではありません。
そこで、複雑な形状の槌について運動方程式を厳密に解くことは不可能にしても、槌を直方体であると見做してしまって振動数が形状そして重さにどうのように依存するのかを理解しようと思いました。
というわけで、6、7年ぶりにクーラン=ヒルベルトの『数理物理学の方法』を開きました。

(いやはや、名著というのはたまに読むと本当に良さが心にしみてくるものですね。)
さて、それで、詳細は省きますが結論としては、金属の直方体を鳴らしたときにそれの音程と認識されるであろう基本振動数(fundamental frequency)は、一番長い辺に横断的な方向への振動により与えられるもので、
長さの自乗に反比例し断面積に比例するということがわかりました。
つまり単純に相似なまま重さを二倍にしても振動数は半分にはならない、振動数が重さに反比例するためにはうまく形状を変えなければならない、ということになります。
(弦では長さの一乗に反比例するのに金属の棒あるいは板では二乗に反比例するのは、弦では時間方向にも空間方向にも二階の偏微分方程式である波動方程式に従うのに対して、金属棒では時間方向には二階だけど空間方向には四階の偏微分方程式に従うことが反映しています。)
以上のような話をスタンコお嬢さんにしてみたら、こんなことを言いはじめました。
「鳴っているのは槌ですか?むしろ叩かれてる金属板の方ではないですか」と…。
「仏壇のチーンでは叩く棒は鳴りません。」
さすがスタンコお嬢さんです。言われてみればもっともであります。
でも、そうだとしても上の考察した状況により近くなるだけで結論は変わりません。
まあ、もともとこのピタゴラスの逸話は、あくまで逸話であって、基となる出来事はあったかもしれないけれどもそのまま事実というわけではないでしょう。
仮にピタゴラスが鍛冶屋で何かを発見したとして、それは音に関する
定性的な事実だったのかもしれません。つまり重い金属を叩くと低い音がするというような…。
数比と協和の関係については弦を通じて発見したのではないか、などと憶測してみたりもします。
それにしても、協和における「数比」というのは、現代では振動数の比という非常に具体的に実体を持ったものとして理解できるわけですが、もちろんピタゴラスの時代にはそういう理解ではなかったわけで、もっと抽象的な概念的なものだったわけです。にもかかわらず「万物は数である」という、それが言われてから2000年以上たってから近代科学がその言葉に血と肉を与えることになる世界観を打ち出したピタゴラスってやっぱりすごいのかも、などと思ったりもします。
posted by まうかめ堂 at 18:27|
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