2008年07月26日

フランコにおけるハビトゥス

上の記事のタイトルだけ見ると中世哲学に関する論文の題名かなにかにきこえますが、「まうかめ堂」で翻訳をしているケルンのフランコ著『計量音楽論』についての話です。

この『計量音楽論』には二箇所ほど中世哲学のタームを用いた記述が出てきます。

一つは「ある類において、ある特定の種と種差があたえられると別の種が定立される」というアリストテレス哲学の基本(?)が出てくるところで、この箇所はそれほど悩まないで良いものでした。(ただ訳がどうにも…。)

しかし、もう一つの箇所には habitus, privatio というスコラ哲学に独特なジャルゴンが登場し、本筋には直接関係していないにしても、仮にも訳文を作るとなると、ちょっと悩ましい部分でした。

それは次の一文です。

Sed cum prius sit vox recta quam amissa, quoniam habitus praecedit privationem,

素直に意味をとると、「無音(vox amissa)よりも真正の音(vox recta)の方が第一のものである。なぜなら habitus は privatio に先行するから。」となります。

privatio というのは「欠如」という意味で、文の前半の無音と対応していて、この意味で間違いなさそうです。

一方、habitus は辞書を見ると、その意味は「態度、外観、服装、様子、状態、習慣、性質…」で、???となってしまいます。(英語の habit=習慣はここから来てるみたいですね。)

文脈からは、habitus は「欠如」の反対、すなわち「存在」あるいは「有ること」を言っていると推測でき、また他の人(専門家)の訳を見てもそのように訳されているので、きっとそれで良いのでしょう。とはいうものの、やはりしっくりこないものは残ります。

ただここでの habitus は中世哲学のテクニカル・タームであって、おそらく通常の意味とずれるものであることも想像されるわけで、多少調べてみるなりしてもいいのかなとも少しだけ思いましたが、ここでスコラ哲学に深入りするなんてことはさすがに無理なので、もやもやしたものを残しつつそのままにしていました。

で、最近、ある本を読みました。山内志朗著「天使の記号学」(岩波書店)です。そしたら「ハビトゥス」についてだいぶページを割いて論じられていて、だんだんこの語の内実がわかってきました。

ここでその議論の不用意な要約はすべきではないでしょうが、また詳しくはその本を読んでいただくのが良いでしょうが、すこしだけ私の理解をまとめておくことにします。

まず一つのパラグラフを引用します。

ハビトゥスには、<態度、行状、衣服、装い>等の意味もある。これらがハビトゥスと言われるのは、所有されるものからだ。つまり、habere (所有する・持つ)の受動的結果として考えられているのだ。とはいっても、トマス・アクィナスによれば、このようなハビトゥスは本来のハビトゥスではない。ハビトゥスとは、「持つ」ことの受動的結果、所有されるものではなく、ラテン語で言えば、"se habere" つまり「おのれを持つこと→状態にあること」から生じるものだからだ。


なるほど、ハビトゥスは「自己を保持すること」から来ているわけですね。上の文では「おのれを持つこと→状態にあること」という形で→で結ばれているけれども、より根源的には「自己を保持すること→有ること」だと理解できそうです。

また、この本の別の箇所では、こちらはハビトゥスとは直接関係ないけれども、「存在の三項図式」というのが登場します。

それは、ラテン語の動詞から本質を抽出されたような概念については次のような「三項図式」で理解すると出発点として理解しやすいというものです。

たとえば、生命(vita) - 生きること(vivere) - 生物(vivens)、光(lux) - 光ること(lucere) - 光るもの(lucens)、等が三項図式の例で、著者は存在、本質、普遍を論ずる手がかりとして「存在の三項図式」、本質(essentia) - 存在(esse) - 存在者(ens)を導入しています。

さて、「存在の三項図式」の方については、本の方を参照していただくことにして、ハビトゥスです。この本にはそう書かれているわけではないけど、ハビトゥスを三項図式で書くとその意味がはっきりしてくる気がします。

すなわち habitus - se habere - habens.

つまり habitus とは、「自己を保持すること se habere 」の本質、「自己を保持すること」性であると理解できます。

この本の前半部分を参照するなら、habitus に「己有性」なんて訳語をあててもいいかもしれません(笑)。

わたしとしては、これで、「態度云々」といった通常の意味からだいぶ理解が進んだ感じがします。

でも、まだ疑問はのこります。たとえば、本文にあるように habitus は privatio に「先行するもの」なのかとか、フランコはどの程度同時代の哲学者とハビトゥスについての理解を共有していたのかというような疑問です。

でもここから先は邪推のようなものになりそうなので、ここでやめることにしましょう。
posted by まうかめ堂 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世音楽