2010年03月26日

MONO-POLI

バリトン歌手の松平敬さんの一人多重録音アカペラCD、MONO-POLI を聴いてみましたので感想を書きたいと思います。

このディスクの内容はかなり凄くて、「夏は来たりぬ」のカノンから、松平氏本人の自作曲まで、700年超に及ぶ全31曲を全て一人で演奏されています。そのチャレンジングな内容と、これだけのディスクを作り上げるのに要した手間ひまには本当に頭の下がる思いがします。演奏のクオリティーも非常に高く、一聴の価値ありだと思います。

そういうわけでまうかめ堂的大絶賛のディスクです、と言いたいところだったのですが、実際にそう言おうとすると、若干の齟齬の感覚が残ります。一体このひっかかる感じはなんなのだろう???、と、もやもやしているのですが、それをはっきり言語化しようとして、今これを書いています。

前述のように、中世からルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、近代、戦後の前衛音楽そして現在にいたるまできわめて広範なレパートリーが録音されていて、しかも終わりに置かれたマショーの「我が終わりは我が始まり」の逆行カノンにならって、曲順は古い作品から新しい作品へと順に進み、ちょうど真ん中に置かれた氏の最新の自作で折り返し、また古い作品へと進んで行くという凝ったつくりになっています。
しかもその選曲にはそのカノンという軸線を通し、さまざまな時代のさまざまなカノンが配されているという念の入れようです。

で、これは確かに面白い趣向であって、若いころの私だったらきっと喝采を送ったにちがいありません。しかし、どうもこれを手放しで絶賛できないのは、少々意地悪く聞こえるいい方をするなら、思い付きをやってみました以上の意図が見当たらないことにあります。

例えば、さまざまな時代のさまざまな音楽が雑然と並んでいるという印象が拭えません。唯一の軸線たるカノンについても、色んなものをとにかく集めてみました程度の極めて弱いつながりしか感じとれないのがとても残念に思います。せっかく魅力的なテーマを設定しているのだから、中世以来現在に至るまで、その表層的な装いを絶えず変化させながら営まれてきた、カノンという実践の精髄が聴こえてくるような作りになってると良かったのにな、なんてことを思ってしまいます。

また一人多重録音ということに関して、クラシック音楽に於ける録音が生演奏の代替物、あるいは記録という認識が未だ強いことに抗して、音素材への現代テクノロジーの積極的な介入によるサウンドクリエイティング(ポピュラー音楽では既に当り前のこと)への強い意志が自身の手による解説から窺うことができ、そのことにはとても共感を覚えるのですが、実際それがどれほどの水準で達せられているかというと、それほど高いところまで到達しているようには見えないことも残念に思う点です。

もちろん松平氏は声楽のエキスパートであり、それぞれの音素材の素晴らしさについては私がどうこう言えるものではないのですが、次のような感想を持ちます。

「夏は来たりぬ」の演奏がルネサンス音楽の部屋における布袋厚さんの演奏を本質的に越えているかというと、そうでは無いと思います。

13世紀のモテト Alle psallite cum luya の演奏が、この演奏が参照していると思われるマンロウの演奏より魅力的かというと、これもそうではありません。

15世紀イギリスのキャロル Lullay... がアノニマス4より美しいかというと、これもそうとは感じません。

つまり、折角一人多重録音という「茨の道」を果敢に進んでいるのに、そのことが真に効を奏している曲があまりに少ないと思うのです。

私が思うにこのやりかたがその威力を遺憾なく発揮している曲は、ケージの二曲と松平氏の自作曲の3曲だけのように思います。

惜しいのはリゲティの Lux aeterna ですね。これ、サンプリングでやったら面白かったんじゃないかと思います。実はこの曲、私が「初音ミク」に歌わせたいと思う曲の一つでした。

また、私の感覚ではこのディスクを、次のものたちよりも低く評価せざるをえません。

グレン・グールドのいくつかのディスク
富田勲の最良の作品
マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」
ブーレーズの「春の祭典」の最初の録音(自身の分析論文を「鳴らす」ために実演ではありえないバランスのミキシングがされている箇所があります)
スティングによる Dowland: Can you excuse my wrongs

というわけで齟齬の感覚についての結論が出ました。
つまり、試みは素晴らしいが、それが必ずしも十全に生きているわけではない、です。

さて、音楽それ自体についての感想は大体以上ですが、松平氏自身の手による解説でいくつか気になる点がありますので少し書きたいと思います。

まず「夏は来たりぬ」のカノンの成立年代が「1240年頃」とされていますが、これは誤りで、「1280から1310年ごろ」というのがきちんとした実証研究による現在の結論であるようです。ただ、イギリス人研究者は現在でもあれこれ理由をつけて「1240年頃」説を固持しようとするそうなので、この場合に限っては彼らの言うことを信ずるべきではないでしょう。

また「カノンとは、自然界にありふれた「こだま」の効果を音楽化したものだ」とありますが、これはいかがなものかと…。
なんというか、それは、例えば「太古の人類が感きわまって叫び声を上げたとき、音楽が誕生した」なんていうのと同程度の深さの意味しか持ちえない命題に聞こえます。

これに対してはいろいろなことが言えますが、まずカノンの原義にもどるなら、あるいはカノンの歴史をひもとくならば、輪唱形式の単純カノンのみがカノンだというわけではないですし、輪唱形式のカノンが全てのカノンの原型であったというわけでもおそらくなかったでしょうし、輪唱形式のカノン自体も「こだま」の効果の音楽化としてその発生の根拠を捉えることはそれほど自明でないだろうと思います。

逆に「こだま」の効果を目指して書かれたホルストの最晩年のカノンみたいな特殊な例もありますが…。

以上、いろいろごちゃごちゃ書きましたが、最初に言ったように一聴の価値はあると思いますよ。なにしろ面白いディスクですから…。
posted by まうかめ堂 at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世音楽(CD)