再び「ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書」(ピエール・ブーレーズ著、船山隆、笠羽映子訳)から、ある音楽事典のために書かれた文書の中から、「対位法」についての文章についてです。
これはまさに音楽事典の「対位法」の項目に書かれた対位法の解説ですが、ただの辞書的な解説に留まらない、きわめてブーレーズ的なものになっています。
その中で、それこそ中世から現代にいたる対位法の歴史が、簡潔にして高密度に記述されるのですが、その記述は極めてフランス人ぽいというか、読者に全く媚びないというか、「着いてこれるやつだけ着いてくれば…。こっちは必要十分に解説してるもんね」みたいなところがあって、私は結構好きです。
それで、この中で、「アルス・ノヴァ」、とりわけマショーについてブーレーズが非常に高く見てることに、驚かされます。
「アルス・ノーヴァ」はポリフォニーの変遷におけるもっとも輝かしい時期の一つである。きわめて急速な発展が生じたのは、定量記譜法のおかげである。この時期は、フィリップ・ド・ヴィトリのような大理論家の名や、あらゆる時代を通じてもっとも偉大な作曲家の一人、ギョーム・ド・マショーの名に結びつけられる。ここでわれわれが目撃するのは、リズムや旋律による各声部のきわめてはっきりした区別である。展開は、いっそう精緻な旋律と流動的なリズムによって、より変化に富んだ柔軟なものとなるが、このリズム的柔軟性は、今日なお一方ならずわれわれを驚かせる。他方「終止クラウズラ」の確立は、展開に対して一種の三和声的な基礎を保証する。人々は、声部間で模倣を行なういくつかの用法を見いだし始める。マショーの音楽は、まったく驚くべき複雑さや精緻さや精妙さを示している。マショーは、旋律対位法の領域においてもリズム対位法の領域においても同様に、完璧な技倆をわが物としたのである。彼の音楽はヨーロッパ音楽の発展のなかで一つの頂点を成している。
訳がところどころ変なのと、いまでも「終止クラウズラ」なんていい方するのかなというのはありますが、マショーに対する評価が異様に高いですね。
「あらゆる時代を通じてもっとも偉大な作曲家の一人、ギョーム・ド・マショー」であり、「彼の音楽はヨーロッパ音楽の発展のなかで一つの頂点を成している。」ですから。
これに比べるとその後のフランドル楽派や、16世紀末の対位法の「黄金時代」に関しては割とそっけなかったりします。
で、次に明確に重要視されているのは、大バッハです。
それ以降(モンテヴェルディ以降)の音楽は、対位法的な考え方と和声的な概念の交錯を目ざした。ヨーハン・セバスティアン・バッハについては次のようにいうことができる。すなわち、彼は17世紀以降の書法の発展すべてを見事にしかも効果的に要約している、と。まさしくバッハにおいては、二つの書法類型の間にきわめて緊密な結び付きが見いだされ、またその結びつきは、彼以後もはやそれほど容易に達成されないような一致を示している。現在でも学校の対位法は、とくに彼の作品から引かれた範例にしたがって教えられている。バッハはわれわれに「対位法大全」とも言えるものを残したが、そこには、人間の獲得し得る書法上の全知識が要約された形で見いだされる。この大全は、『フーガの技法』、『音楽の捧げもの』、(チェンバロのための)『ゴールドベルク変奏曲』および(オルガンのための)『"高き天より”に基づく変奏曲』を含んでいる。これらの四つの作品には、模倣から厳格なカノンに至るまで、自由な対位法や厳格な対位法の諸形式がすべて見いだされる。
さらに興味深いことに、対位法の教育に関してこんなことも言っています。
しかし現代の対位法教育においては、より多くの考慮がバッハ以前の作曲家たちに与えられることが望ましい。大部分の教師たちにとっては、音楽が始まるのはまさしくバッハからということになっているのだ。ルネッサンスの側からおずおずとした侵入が行われはしたが、「オルガヌム」から古典派の時代に至る対位法の発展に誠実に基づいた教育は何もない。さらにテキストそのものを識ることも、それらの出版物が数少なかったり、高価であったりするために、ひじょうな制限を加えられている。
これは現在でも全く当てはまる指摘でしょう。
バッハが偉大であることは疑いようのないことです。「音楽の父」と呼ばれ、それ以前の全ての音楽はバッハに集約されており、それ以後の音楽の発展の全てがバッハに遡れるというものの見方は一つの観点として正しいでしょう。
バッハは西洋音楽においてもっとも高い山(の一つ)なわけですね。
しかしそれは一つ陥穽でもあります。すなわち、あまりに大きな山なのでその向こうが見えなくて、また、その山を登って越えることなど極めて困難なことです。
確かに、バッハには中世音楽のかすかな残響さえ聴くことができます。が、しかし、「集約」は「取捨選択」であり「選別」です。ある種のフィルタリングです。当然のことながらバッハに中世音楽そのものを聴くことなどできません。
バッハの向こう側に行くためには、一度「飛ぶ」必要がどうしてもあるようです。ヘリかなにかで山の向こうにポンと飛ぶ。
そうするとさらなる山々が連なっているのが見えるのですが、今飛び越えてきた高い山と同じくらい高い山に出会うことになります。
それがマショーです。
というか、マショーの高さを正当に見極められるかがどうかは、バッハを音楽の「始まり」とみなす類の立場、「バッハの重力圏」から抜け出ることが出来るかどうかにかかっていると言っても良いかもしれません。
(もう一つ「バッハの重力圏」から抜けだせるかどうかが問題になるのは20世紀音楽に向き合うときでしょう。)
ブーレーズの同じ文書の中にこんな一節があります。
たしかに、今や音楽の発展は、モノディーであり次いでポリフォニー(対位法から和声)であった二つの段階のあとで、第三の段階に入りつつあり、それは一種の「ポリフォニーのポリフォニー」であるように思われる。すなわち、もはや単なる堆積ではなく、音程の「配分」が要請されるのである。大ざっぱな表現だが、今や音楽には新たな次元が存在する、といえるだろう。このポリフォニックな観念は、いわゆるリズム語法の発展に助けられている。そしてたしかに、中世以来、あらゆる領域において、現在ほどの鋭さをもって問題提起がなされたことは未だかつてなかったように思われる。現代と「アルス・ノーヴァ」の間に正当な権利をもって存在し得るのは、以上のような比較だけだろう。
なかなか理解しにくい一文ですが、この文章は1960年ごろ書かれており、「ポリフォニーのポリフォニー」という「第三の段階」をセリーに託したブーレーズの夢はそれほど成功しなかったようにも今となっては見えます。
しかし、ブーレーズが当時一体何を夢見ていたのか、そしてそれとの関連においてアルス・ノヴァの中に何を見ていたのかは非常に興味のあるところです。
そういうわけで、私がマショーの MIDI を作るのは、ブーレーズを理解するためだと言ってもよいでしょう。