で、もちろん昔読んだときには全くそんな風に思いませんでしたが、これって「20世紀のアルス・ノヴァ」なんじゃないかという風に強烈に感じました。
ここで言うアルス・ノヴァとは、フィリップ・ド・ヴィトリの同名の論文のことを指しています。すなわち、それまでの「古い技法」に対して、計量記譜法(これは即その方法による作品の音楽構造を規定しています)に関してのイノヴェーション(二分割リズムを認めることと、ミニマの導入)を提案・提出した、かの有名な論文のことで、それがそのままその時代・様式の音楽に転用されたおおもとのことです。
で、ブーレーズの Eventuellement… は、まさにそのころその技法による傑作(「ル・マルトー」)を完成させつつあった、セリーの技法に関する非常に具体的な論考です。
私にはこれが、20世紀音楽におけるセリーの技法についてのアルス・ノヴァに見えるのです。
自分の作った曲にすら自分の名前を記さなかったほど慎ましやかだったヴィトリと比べれば、「激怒する職人たち」(ルネ・シャール)を地でいくような若きの日のブーレーズはアグレッシブです。
つまり十二音音楽語法の必要性を感じたことのない(中略)音楽家は、すべて「無用」である。
なんてことまで言ってます。(有名な一節ですが。)
でも、内容的にはさして戦闘的というものでもなくて、19世紀末ぐらいまでの伝統的(因襲的)音楽を、新ウィーン楽派らの資産を元手に、どのように超克していくかが、具体的な方法論とともに示されています。
読むほどにアルス・ノヴァですね。
しかも面白いことに、ここにはマショーやデュファイへの言及があります。
たしかにリズムをセリー構造に組み入れる必要がある。どのようにしてそれを成し遂げるのか?
逆説的にいえば、その出発点となるのは、ポリフォニーをリズムから引き離すことであろう。保証を必要とするなら、マショーやデュファイのアイソリズム・モテトを挙げればよい。つまり、われわれは、リズム構造にもセリー構造にもまったく対等な重要性を与えるのだ。この[リズムの]領域においても同様に、可能事の網状組織を創りだすこと、それがわれわれの目標である。
一つ前の記事で、20世紀音楽に言及したのには実はこういう背景があったんです。
というか、この一文は、私の関心が中世音楽に向かう遠因の一つだと言ってもよいものです。
十二音音楽、そしてセリー音楽へといたる道は、大体バッハの時代から19世紀終わりぐらいまでのいわゆるクラシック音楽に慣れ親しんだものにとってはなかなか理解しがたく、また現在学校で教えられているような「標準的な」音楽な規範からすると受け入れ難いものでありえます。
しかしながら、ヴァーグナー以降顕著だった半音階主義の中、調性は一度解体されねばならなかったということを前提とするならば、調性和声、あるいは機能和声に基づいた音楽の構成法を捨て去らなければならなかったことは必然であり、それにかわる新しい音楽の構成法、組織化の方法を探し求める必要があったこともまた必然でしょう。
そうしたときに、シェーンベルクはどの程度自覚していたかはわからないけど、ストラヴィンスキーは極めて直観的に、メシアンとブーレーズは音楽史全体を俯瞰的に見渡す観点からの論理的帰結として、それぞれに、そして常に implicit に中世音楽への参照がなされたということは、今では私には必然のように思えています。
ロマン主義の時代にあまりにも多くのものを背負わされてしまった音楽を解放し、音と人間とのより直接的な結びつきをとりもどすこと。
音楽は、その本質からいって、感情、態度、心理状態、自然現象など、いかなるものであっても何ものをも表現する力を持たない、と私は考える。未だかつて表現が音楽の内在的特性であったことはない…。(ストラヴィンスキー)
20世紀音楽、というか上に挙げた作曲家の音楽は、その前の世紀の音楽よりずっと、中世音楽、より正確には十二世紀以降の中世多声音楽に近いと感じています。
すなわち、神の声たる(グレゴリオ)聖歌に対する注釈としての音楽の時代、与えられた神の声=聖歌は既に書き留められ、シンボルとして、記号として操作の対象になっていて、数の学問の一分野たるムジカを修得したマギステルたちが行っていたことは、「宇宙の調和を見つけ出す」という認識の下で、調和=比例関係に基づく音の大伽藍を築き上げることにほかならなかった、そんな時代の音楽にです。
セリー音楽と、ブーレーズも言及しているアイソリズム・モテトに関して言えば、その発想法も、おそらくは作曲のプロセスも、かなり似通っていると言ってよいでしょう。
(結果として得られる音響はだいぶ異なるものになりますが…。
また、20世紀と中世の非常に大きな違いは、20世紀にはもう「神」がいなかったことでしょうか。)
西洋音楽の歴史全体を、ひとまとまりのもの考えたときに、(それは正当なものの見方でしょう。)非常に大きくわけて15世紀ごろから19世紀末までと、それ以外にわける見方がありうるだろうと、私は思っています。これは、音響の性質という観点から、三度を中心にした音の構成法が主流だった時代とそれ以外と言っても良いかもしれません。つまり、響きの性質ががらっと変化した時期がここ2000年ぐらいの間に二回あったということです。
前者は常に中心であり、後者は明らかに周縁です。
そして、多くの人は、(たとえ音楽のプロであっても、)「中心」の論理・観点から非常にしばしば「周縁」を裁いてしまっていることに何の疑念を持たないどころか、そういう事態が生じてしまっていることにすら気づいていないようにも見えます。
私はいまさらいわゆる「現代音楽」を解さない人から20世紀音楽を擁護しようなどという気はまったく起きませんが、中世音楽は、西洋音楽の礎として音楽の卵であると同時に、もはや多くの人々にとってその声をきちんと受け止めることの難しくなってしまった内なる他者です。
中世音楽は、多くの人々が「音楽とはこういうものだ」と認識しているその音楽の正統性を根底から覆す力を内に秘めています。
西洋音楽の歴史は、中世と20世紀を足場として一度脱構築されてよい、ということが一つ前の記事で言いかけたことでした。
ですが、今回も議論が性急に過ぎました。
本来、方法とか手段はあとから理論化するもので、音楽自体に先んじて技法を追求したところに聴衆がついていけなくなったのではないでしょうか。(たぶん)技法を知らなければその音楽の良さがわからないわけですから、専門家以外に訴えかけるものがないのだと私は思います。
音楽はその価値判断が聴衆に委ねられている以上、そろそろ誕生から100年くらい経っている作品群があまりにも難解というのはどこか、多くの人に訴える何か肝心なものが抜けているのではないかと思ってしまいます。それが何かと突き詰めれば、やはり調性ということなのではないのでしょうか。
民族音楽が下手な作曲家が書いたものよりはるかに力強いものを持っているのは旋法とか調性を聴衆が共有しているからで、なぜ共有できるかはたぶん、前後の振動数比が簡単な音列しか人間には心地よく感じないからなのでしょう。
小さい子供に調性のある音楽とない音楽を聴かせて「洗脳」したとして、成人したのちにどういう音楽を好むのでしょうね。誰か研究した人いないでしょうか。
まず、コメントの中で疑問文の形で問われていることは、一般に私がお答えできるようなレベルのことではないです。
「十二音の音楽は全く理解できません。」ということを表明したかったのであれば、「ごもっともです」とお答えすることになると思いますが、きっとそこが核心ではないでしょう。
あるいは、無調音楽や12音音楽に対しての否定的・批判的な意見や感情を表明したいというのが主眼であるならば、「仰っていることは理解します」とお答えします。
それともその御意見に対して私が何かをいうことをお望みなのでしょうか。
調性を感じるとホッとするのはなぜか、不協和音を不安と感じるのはなぜかとか、あれやこれやを考えると、調性があってこそ無調の部分が活きてきて、無調があるから再び調性を求める気分になるのではないかと思います。
調も無調も相補的に発展すればいいのだと思いますが、その間の溝があまりにも深い作品が時代を超えて好まれるとは私にはどうしても思えないです。一般の人の感覚はだいたいこんな感じなのではないでしょうか。調も無調もどちらも大事という時代になれば議論が平行線をたどることもないと思うのですが。
>不安と感じるのはなぜかとか、あれやこれやを考え
>ると、調性があってこそ無調の部分が活きてきて、
>無調があるから再び調性を求める気分になるのでは
>ないかと思います。
現代において、難解とされる無調の音楽が市民権を得て立派にその機能と役割を果しているような場所が実はいくつかありますね。
例えば映画音楽やそれに類するもので、不安な場面やホラーな箇所では無調の曲が効果的に使われることが結構ありますね。
私としては、基本的にこのような自然なありかたで良いのだろうという気がしています。すなわち、ことさら無調音楽を不自然に称揚したいなどとは思いません。
>その間の溝があまりにも深い作品が時代を超え
>て好まれるとは私にはどうしても思えないです。
仰るとおりだと思います。現在では、シェーンベルクらの12音音楽や戦後の前衛音楽が演奏される機会が全く無いことはないという状況ですが、昨日の話にありました50年後に、それらがほぼ忘れ去られているということは大いにありうるだろうと思います。
仮にそうなったとしても、私は世の趨勢がそうなのだから仕方がないと思いますが、「本当にそんなに簡単に忘れてしまっていいの?」ぐらいのことは世界の片隅でつぶやくかもしれません。
20世紀前半の無調音楽を考えるときに私が出発点としているのは次の問です。「26歳で後期ロマン派の傑作『浄夜』を書くことのできたシェーンベルクが、なぜ聴衆の理解が得られないことがわかっていながら無調と12音技法の道を突き進まなければならなかったのか」あるいは「彼やその同時代人たちは、なぜ『自然な』調性和声や機能和声を全否定しなければならなかったのか」です。
彼らは伊達や酔狂で茨の道を進んだわけでは全くないでしょうし、実際使命感をもってやっていたことはまちがいないでしょう。
ではなぜ?
100年も前に全く異なる文化圏の国で起こったことを理解しようというのは恐ろしく困難で、私には「これこれこういうわけで」ということを即答することは出来ませんが、時代背景を相応に調べ、前後の時代の関連する作品群を見ることで、朧ろげながら見えてくるものは確実にあると思います。
しかしながら、誰もがそういう類の努力をすべきだなどということも私は言うつもりは毛頭ありません。
ただ、その辺のことをクリアーにしてくれる人が現れてくれないだろうかとか、他力本願なことはときどき思います。
また、私の現在の関心事はもっとずっと昔の13世紀とか14世紀とかの中世音楽で、こちらもあまりにも遠すぎて理解しようというのには大変な困難が伴いますが、シェーンベルクについて考えるよりはずっと楽しいことは確かです。
この間、原博という作曲家の「無視された聴衆」という本を読んでみました。シェーンベルクは感性ではなく意思の力で十二音技法を押し通した不自然な作曲家であるという主旨の論文が載っておりまして、文章も内容も非常に説得力のあるものでした。音楽の世界では有名なのかもしれませんが、実は私もそれに近い考えをもっております。
音楽は数学やサイエンスではないので技法が先行すると妙なことになりますね。天才は意思の力で努力したりせずとも聴衆に訴える作品を書く。シェーンベルクももちろん卓越した作曲家であったと思いますが、どこか無理しているような気がしませんか。個人的な感想ですが、勉強すればなんとかその成果はわかりそうな音楽というのか、演習問題の解みたいな音楽というのか、単に感動するから何回もレコードで聴きたいという気にならない。
現代音楽の作曲家で、晩年に古典回帰する人がいますね。人間、原体験から逃れることはほぼ不可能である以上、当然の成り行きなのだと想像します。幸か不幸か、私は中年に至って、現代作品はますますわからなくなり、調性べったりの歌謡曲のよさがますますわかってきました。
原博さんはプロの作曲家でありながら無調の音楽に相当な抵抗をした人のようですね。若い音楽家を鼓舞しているところでも、技巧に走らず、感性に従えという意味のことを書いておられました。ある意味では技法のための技法を追及するより勇気のいる音楽人生ではなかったかと思います。
この本のタイトルとサブタイトルを見たときの第一印象は、現代音楽批判という観点については過去何十年にもわたって繰り返し言われてきたことを今一度言ってる本に見えました。
ただ Amazon のレビューなどを見ていると、むしろ、著者自身が置かれることを強いられた不幸な状況に対する異義申し立ての書のようですね。
しかしこちらはむしろ現代のクラッシック音楽の抱える憂うべき事態の一つに関することで、シェーンベルクの美的価値といった問題とはひとまず切り離して考えるべき問題です。
話を発散させないために、まず、シェーンベルクのことに話を一旦限定します。
(私はシェーンベルクの信奉者というわけでは全くないのですが…。)
「シェーンベルクは感性ではなく意思の力で十二音技法を押し通した不自然な作曲家である」というのが言及されている論文の正当な要約であると仮定して、この文を素直に読むならば、それは無理解より生ずる間違った認識の典型例に聞こえます。
ただ、ここで「感性」と「不自然」という語がどういう意味で用いられているのか私にははっきりしないのですが、「感性」が「美的感覚」の意味で、シェーンベルクが自分ではそれを美しい・良いと感じていないにもかかわらず美しくも良くもない音楽を自身の技法を通じて作り続けた、の意味だとするとそれは大間違いでしょう。
なぜなら彼の音楽は美しいからです。
これが理解しえないのであれば、全く自明でないという言いかたにしてもよいかもしれません。あるいは良いというのでもいいでしょう。
もし仮に彼の音楽が12の倍数個の音をランダムに並べただけのものと大差ないという風に大勢の耳に聴こえるならば、彼の作品は恐ろしく不幸な境遇にあると言わざるを得ません。
バッハやベートーヴェンなど大作曲家と呼ばれる人たちは、多くの場合、それまでに人類が経験したことのない新しい響きに到達しようとしたパイオニアでもありました。
精神としてシェーンベルクもその系譜に属することは間違いないでしょう。(むしろそれが不幸のはじまりかも知れません。)
シェーンベルクはどこか無理しているような気がしませんか、という言葉がありましたが、逆に「ベートーヴェンは無理していなかったでしょうか?」と問うことができます。
すなわちシェーンベルクとベートーヴェンはパイオニアとして同種の「無理」をしていたのだろうと私は想像します。
ここで「無理」という言葉はおそらく適切でなく、「努力」という語で置き換えるべきかもしれませんが…。
これまでの文面からお察しするに、「12音音楽においては技法が先行している」あるいは「12音技法は技法のための技法である」というような考えをお持ちのようにお見受けしますが、これらも典型的な誤解と言えるだろうと思います。
シェーンベルクがいわゆる「自由な無調」の時代に突入したのは1904年ごろだったようです。
それから12音技法に到達するまで20年近い年月を要しています。
しかもその間に、まさに「感性で」音楽を書こうとして一度行き詰まっていて、10年近い作曲の空白期間があります。
調性音楽が機能和声の定式化を必要としたように、いや機能和声の定式化によって、言ってみれば調性音楽が人類に共有されるメチエとなったように、もし仮に無調という出発点を認めるとするならば、何らかの構造化の原理が絶対的に必要であることは明白でしょう。
そして様々な過渡的な作品を経た後に、一つの答えが12音技法であったわけで、それは技法が先行していたわけでも、技法のための技法であったわけでもないでしょう。
では、「はたしてその12音技法は無調の組織化の方法として適切だろうか」などというような問題が、次に出てくるであろう問題と考えられますが、もし本気でそれを考えようとするなら、実際に作品をつぶさに検討してみる以外にないでしょう。
また「勉強すればなんとかその成果はわかりそうな音楽というのか、演習問題の解みたいな音楽」という言葉がありましたが、前者については、何ら勉強しないで理解できる音楽作品なんて極少数の例外状況をのぞいてほとんど皆無であろうと思います。
これは私だけが思っていることでなくて、いろんな人が言っていることですが、音楽に限らず、文学でも絵画でも、異なる地域や時代の文化的な背景の中で生まれた作品を本気で理解しようとするならば、何らかの意味での勉強は必須でしょう。
それは我々が慣れ親しんでいると日頃思っているバッハやベートーヴェンも同様で、むしろなんら努力なしに理解した気になっているかもしれないことこそを警戒すべきでないかと常に思います。
また逆に、通常難解とされる音楽を何の予備知識も無しに聴いてただちにその核心部分を捕まえられちゃう人もいるみたいですね。かなりの振幅で人それぞれだという気がします。
一方「演習問題の解みたいな音楽」というのは正確な意味を理解しかねますが、もし12音技法の規則を図式的に当てはめただけで作られた曲(例えばコンピューターに作らせるとか)のことだとすると、そんな風に作られた曲はまず間違いなく聴けたものではないでしょう。
上でも少し言いましたが、シェーンベルクが作品として残したものは無論その対極にあるものです。それ自体全く自明でない、ということです。
あるいは無調音楽・12音音楽にも「良い・悪い」の公準を設定することが可能でシェーンベルクの作品の多くは「良い」作品と言えるでしょう。
また、調性音楽にしても仮に上で言った意味の解釈での「演習問題の解みたいな」ものがあったならば、それは面白いものではないでしょう。
> 単に感動するから何回もレコードで聴きたいという気にならない。
前にも申し上げた気もしますが、ご自身が良いとは思われない音楽は単に聴かなければ良いだけのことではないかと…。
(かく言う私もヒンデミットの音楽をことのほか毛嫌いしていて、それに対しては「見ざる、聞かざる、言わざる」を決め込んでいます。)
例えばCDショップのBGMでシェーンベルクの無調音楽がガンガン流れていてその店に行くと嫌な音楽を強制的に聴かされる羽目に陥るなんてことはありえないですし、シェーンベルクが音楽の世界で現在不当に幅をきかせているなんてこともないですし、むしろ隅の隅の隅の方に追いやられてる作曲家でしょうし…。
なぜそこまでこだわられるのでしょうか。
(しかも、何故私なんぞのブログに書き込まれるのだろうとも少し思います。コメントを頂けるのはそれ自体うれしいことですが…。)
最後に原博さん関連のことについて少し書きます。
私は原博さんは作品も著作も全く存じ上げない方なので
原博さん御本人に関連することは本来何もいうことができません。
しかし「プロの作曲家でありながら無調の音楽に相当な抵抗をした人」ということに関して一言申しあげたいと思います。
まず第一に全ての「プロの作曲家」が無調音楽や前衛的な手法を受け入れているかというと、全くそうでないでしょう。
例えば久石譲さんは、いまや映画音楽等で超売れっ子の作曲家ですが、音大の学生だったころ前衛的なやりかたにどうしても馴染めずに苦労していたそうです。
ところがある日ミニマル音楽に出会い、それから道が開けたと仰っているのをテレビで見たことがあります。
また、よりクラシック音楽の中核にいる人として、吉松隆さんは極めて美しい響きの調性のある現代作品を書きつづけておられますが、原博さんと同様な苦労をされた方であるようです。若いころには作品が受け入れられず何十回とコンクールに落選し続けたそうです。
そのせいか「現代音楽撲滅運動」とか「世紀末抒情主義」なんてことも提唱されているようですね。原博さんと近い考えなのではないかと思います。
そして、おそらくはこれからより支持を多く集めるのは現代音楽の「行き過ぎ」を非難する方の意見でしょう。
なので現代音楽は吉松隆さんによって2050年までに撲滅されているかもしれません(笑)。
ただ最初の方で申し上げたように、原博さんや吉松隆さんが直面していたのかもしれない、「無調でなければ音楽でない」といった類のドグマが権威の側に実際に存在していたとしたら、それは憂うべきことでしょう。
音楽に感動するためにそれ以外の付属物、つまり、文化とか歴史的背景に関する詳細な知識が必須とは私は思っておりません。外国語の歌曲の歌詞とか、そういうものは相当に勉強しなければわからないですが、音楽に国境はない(厳密に言えばあるのかもしれませんが)からこそ感性でもって楽曲の構成原理とか和声の妙味等に共感できるので、要は難しい理屈はわからないけど、いい音楽だねと思えるものしか人間、聴かないと思います。
技法を勉強しないとわからない音楽というものも(作れば)あるのでしょうが、右脳と左脳の違いというのか、脳に訴える場所を後づけの知識で変更しなければいけないような気がするので、一般の人の感性ではとても付いていけないということになるのだろうと思います。幼少から聴いていれば無調が当たり前の感覚になるかと想像すると、それもまた違うのではないかと思います。
十二音以降のシェーンベルクは私も楽譜など買ってきて相当に勉強したのですけど、やっぱりダメでした。頭でわかっても感性はウンと言わない。ヒンデミットは擬調性が残っているので、少しだけ感動しました。悲しいかな、今後の人生で、もうそれ以降の音楽に感動できる脳の構造が開けるとは思えないので、せめて今までの感性で良質の音楽に触れたいと思っております。
相対性理論がついにわからなかった物理の学生みたいな気分になりますが、サイエンスでは法則の真偽を決める審級は実験です。では音楽はどうかというと、それは多数の聴衆の感性としか私には考えられない。多くの人が聴いた結果、音楽史のどこかに収斂するものだけが本物でしょう。あと50年後くらいに、ただでさえ少ないシェーンベルクのファンがいなくなったとすれば、それは作曲者にとっては不運であっても、音楽史全体から見れば大した問題ではない。
感性は幼少から自分の興味に従ってそれこそ自然としか言い様のないメカニズムで発達するもので、努力も必要でしょうが、バッハもベートーヴェンもそれほど方法論で迷った軌跡は私には感じられません。彼らが相応の苦労をしていたとしても、聴衆はそういう事情に敬意を払いつつかしこまって音楽を聴く必要はないと思います。現に、小学生でも彼らの音楽を嬉々として聴いています。
やはり、私も無理解の徒なのでしょう。どうやっても理解できないものは諦めるほかはない。
原さんも本当は早めに古典復帰したのではないのでしょうかね。24調で前奏曲とフーガを書いたりしています。中年期以降に美学上の価値判断を変えるのは至難です。原さんが言いたかったことの一つは、シェーンベルクやカンディンスキー(同時代の抽象画家です)は中年期に新しい方法論を展開したので、それって本物なのという疑問で、その後の聴衆離れを半分は意図的な(原さんによれば)技法の開発に帰しているのです。
長文で失礼致しました。通りがかりのコメントにご返信いただいたこと、感謝致します。
「音楽に感動するためにそれ以外の付属物、つまり、文化とか歴史的背景に関する詳細な知識が必須とは私は思っておりません。」というのには私も賛同いたします。
私のコメントで文学や絵画のことを持ち出したためにおそらく誤解を招いてしまったようですが、音楽の受容に関して「勉強」という言葉で言いたかったことはその音楽の美しさを発見することの「学習」です。(たしかにそのように読める文章ではありませんでした。)
むしろ「感性」は学習しうる(と私は考えている)、と言ったほうが伝わりやすいかもしれません。(これに年齢が関与しうるのかどうかは私にはわかりません。)
これが目標の中心であり、他のものどもは時と場合によって必要となることもあるかも知れませんがいつでも必要ということではないでしょう。
例えば、個々の技法を知ることは常に必要ではないでしょう。仮に技法に習熟する必要があるにせよ、それは補助手段に過ぎないと思います。
シェーンベルクの楽譜に音列の数字を振ってみたとしても、それだけでは何もわからないだろうと思います。
ピアノ曲集のポリーニの演奏のディスクを買ってきて100回聴くという方がずっと実りが期待できると思います。
というか、このポリーニのディスクを「100回聴く」というのは私が実際にやった愚直な戦略です。
あまり参考にはならないと思いますが、「100回聴く」ということで何が起こったかを書きます。
「100回聴く」というのは比喩で実際にその回数聴いたかどうかはわかりませんが、シェーンベルクのピアノ曲の「気持ち悪さ」に耐えながら何度も何度も聴いていると、いい加減、どこで何の音がどんな風に継起するのかを覚えてしまいます。
正確でなくとも口三味線できるぐらいにはなります。
するとその何の脈絡も無いように並んでいるように聴こえていたはずの音たちが、調性音楽とは全く異なるダイナミズムを持ってしかるべく並んでいることを発見したと思える状況になってきました。
そのダイナミズムは、楽譜の記号的な表面から論理的・言語的操作で簡単に導きだせるようなものでは無いようです。
「右脳」の論理、あるいは音楽美の形姿と言ってよいかもしれません。
多分このときが私が無調音楽を理解する端緒をつかんだ最初だと思います。そして、理解できれば感動も生まれます。
またシェーンベルクは(「感性のみで」作曲しようとして行き詰まったにしても)、その基層において常に「感性にしたがって」作曲していたことがわかります。
12音技法はまさにそこに到達する手段でしかないように思えます。
ただ、以上のことはとても人にお勧めできるようなやりかたではないですね。
> 感性は幼少から自分の興味に従ってそれこそ自然としか言い様のないメカニズムで発達するもので、
まさにその幸運な学習プロセスによって、多くの人はなんの努力をした記憶もなくバッハやベートーヴェンに感動できるのでしょう。
先ほども言いましたように「感性」は学習しうるというのが私の考えです。
しかしそのために誰にとっても効果的な方法があるのかどうかは全く私にはわかりません。
当初コメントを頂いた時には内容がどうというより、その意図がどこにあるのかわからずに戸惑いましたが、少しずつどのような考えでいらっしゃるのかがわかってきたと思います。
また長文のやりとりになってしまいましたが楽しいお話ができて良かったと思います。
いつでもこのような対応ができるとは限りませんが、また機会がありましたら是非お立ち寄りください。