昨年11月から『フランドル楽派の音楽家たち』のブログがオープンしています!!!
ブログ『フランドル楽派の音楽家たち』
オーナーの新見 我無人 (にいみ がむと)さんからブログ開設当初からご連絡をいただいており、早く紹介しなければと思いつつ今になってしまいました。
本家の方が置かれているジオシティーズが今年度一杯で閉鎖されてしまうようで、新ブログの方に少しずつ移行されているそうです。
その本家の方は「まうかめ堂」が常々お手本、目標にしてきたサイトで、(その割に「まうかめ堂」の方は一向に目標に近づく気配がないのですが、)ジオ閉鎖と聞いてどうされるのか少し気になっていました。
ブログの形に移行されると聞いて一安心だったのですが、開設されたとお聞きしたので行ってみると、いきなりの豊富な内容に打ちのめされます。
まさにこれが現在的なあり方ですね!
開設されてから一ヶ月ちょっとですが、既に古楽ファンが興味を惹かれる情報満載です。
さらに、本家の方で公開されていた MIDI が mp3 化されて上げられているのがありがたいです。
改めて聞くと我無人さんの MIDI は本当に繊細です。人の声でやるとともすると覆い隠されてしまうかもしれない響きの核心部分が常に顕在化されているように思います。
しかも mp3 化されたことで意図された音色できけるのはありがたく、やられたかったことが私にはより鮮明になったように感じます。
(「まうかめ堂」はこの10年全く進歩していないので、そろそろ心を入れかえてまっとうな活動にしなければと思いました。)
というわけでブログ『フランドル楽派の音楽家たち』に注目です。
2019年01月01日
2016年01月09日
20世紀音楽完全終了 ピエール・ブーレーズ追悼
数日前にピエール・ブーレーズ死去のニュースが飛び込んできました。
Mort de Pierre Boulez, symbole d’un XXe siècle musical avant-gardiste (Le Monde)
Composer Pierre Boulez dies at 90 (BBC)
Pierre Boulez, classical music's maverick, dies aged 90 (The Guardian)
Pierre Boulez, Composer and Conductor Who Pushed Modernism’s Boundaries, Dies at 90 (The New York Times)
ピエール・ブーレーズさん死去 仏の作曲家・指揮者 (朝日新聞)
90歳。
2013年には既に自身の作品の全集すら出していて、まだ生きてたのかと思われた人もいるかもしれません。
私にとっては特別な作曲家、指揮者でした。
若い頃、現代音楽なるものがどうしても理解出来ずに七転八倒していたときに、遠くの灯台の光のように、常に道標となったのがブーレーズの著作と演奏と作品(役に立った順)でした。
さらに後年、中世音楽に立ち向かうことになったとき、極めて有効だったのが「現代音楽」と格闘したときの方法論でした。
そういえば以前(すごい前)にもこのブログのいくつかの記事で、ブーレーズに言及していました。
20世紀のアルス・ノヴァ
ブーレーズはマショーをどう見ていたのか
「春の祭典」からマショー、デュファイを参照するブーレーズ
(なかなか8年も前の自分の文章を読み返すと微妙な感じがしますね。)
今となってはブーレーズに関して特別な感慨が湧いてくる感じでもありません。
ただ彼の死去によって、20世紀音楽と呼ぶべきものの当事者が完全にこの世からいなくなってしまったと言えるでしょう。
20世紀音楽完全終了です。
(「現代音楽」と呼ばれるものの継承者は若干ながら世界中にまだ存在しているようですが。)
このことは実はそれ以上の意味を持つかもしれません。
今やバッハから西洋音楽史を書き始めたひとはその書物をブーレーズの名とともに書き終えることができます。
(一方古代ギリシャあたりから音楽史を書き始めたひとは21世紀以降も書き続けなくてはなりません。)
前にどこかに書いたかもしれませんが、西洋音楽史における14世紀と20世紀は並行していると感じています。
もっと限定するなら、1350年ごろを起点とする70年ぐらいと1908年を起点とする60年ぐらいが対応するように思います。
私にとって、それが14世紀の音楽、特にアルス・スブティリオールの音楽に大きな関心を寄せる理由なのですが、21世紀の今、われわれは21世紀のギョーム・デュファイの到来を待ち望みます。
今世紀も既に15年が過ぎましたが、今世紀のデュファイが誕生する兆しすらみえません。
あるいはそれは一人の天才が登場するというよりは、無数のデュファイが現れるのかもしれませんし、もう既に人知れず世界のいたるところで誕生しているのかもしれません。
若きブーレーズは1951年のシェーンベルクの死去に際し、「シェーンベルクは死んだ」という短い論文を書いています。
Pierre Boulez: Shoenberg is dead
これはもちろん死亡記事などではなくて、無調に歩みを進め、12音技法というセリー技法の端緒を開発しておきながら、それを単純に古典的な形式に適用するなど、セリーそのものの可能性を見過ごし、misuse し続けた彼の諸作品に対する糾弾であり、それらは時代遅れのものであるとしてシェーンベルクの音楽そのものの死亡を宣告する記事でした。
(そしてブーレーズらセリー作曲家たちの出発点の一つとなったのがむしろウェーベルンであったわけです。)
ブーレーズの死去に際し、われわれは何を言えるでしょうか?
もう既に、彼自身の作品は忘れ去られたに等しい状況かもしれません。
少なくともアンサンブル・アンテルコンタンポランが存続している間は、ほそぼそと世界の片隅で演奏されることもあるでしょうが、近い将来、全く演奏されなくなるかもしれません。
そんな風にして20世紀が忘れ去られたとしたら(ブーレーズが20世紀音楽に占める役割は一般にそれほど大きく見積もられないかもしれませんが、そこが第一の問題でしょう)、20世紀を見過ごした21世紀、22世紀の人々の作る音楽が一体いかなる意味や価値を持ちえるというのでしょう。
今一度、21世紀のデュファイの到来を待ち望みつつ、真に終わってしまった20世紀音楽にわずかばかりの感慨を胸にいだきながら、記すことにしましょう。
ブーレーズが死んだ。
Mort de Pierre Boulez, symbole d’un XXe siècle musical avant-gardiste (Le Monde)
Composer Pierre Boulez dies at 90 (BBC)
Pierre Boulez, classical music's maverick, dies aged 90 (The Guardian)
Pierre Boulez, Composer and Conductor Who Pushed Modernism’s Boundaries, Dies at 90 (The New York Times)
ピエール・ブーレーズさん死去 仏の作曲家・指揮者 (朝日新聞)
90歳。
2013年には既に自身の作品の全集すら出していて、まだ生きてたのかと思われた人もいるかもしれません。
私にとっては特別な作曲家、指揮者でした。
若い頃、現代音楽なるものがどうしても理解出来ずに七転八倒していたときに、遠くの灯台の光のように、常に道標となったのがブーレーズの著作と演奏と作品(役に立った順)でした。
さらに後年、中世音楽に立ち向かうことになったとき、極めて有効だったのが「現代音楽」と格闘したときの方法論でした。
そういえば以前(すごい前)にもこのブログのいくつかの記事で、ブーレーズに言及していました。
20世紀のアルス・ノヴァ
ブーレーズはマショーをどう見ていたのか
「春の祭典」からマショー、デュファイを参照するブーレーズ
(なかなか8年も前の自分の文章を読み返すと微妙な感じがしますね。)
今となってはブーレーズに関して特別な感慨が湧いてくる感じでもありません。
ただ彼の死去によって、20世紀音楽と呼ぶべきものの当事者が完全にこの世からいなくなってしまったと言えるでしょう。
20世紀音楽完全終了です。
(「現代音楽」と呼ばれるものの継承者は若干ながら世界中にまだ存在しているようですが。)
このことは実はそれ以上の意味を持つかもしれません。
今やバッハから西洋音楽史を書き始めたひとはその書物をブーレーズの名とともに書き終えることができます。
(一方古代ギリシャあたりから音楽史を書き始めたひとは21世紀以降も書き続けなくてはなりません。)
前にどこかに書いたかもしれませんが、西洋音楽史における14世紀と20世紀は並行していると感じています。
もっと限定するなら、1350年ごろを起点とする70年ぐらいと1908年を起点とする60年ぐらいが対応するように思います。
私にとって、それが14世紀の音楽、特にアルス・スブティリオールの音楽に大きな関心を寄せる理由なのですが、21世紀の今、われわれは21世紀のギョーム・デュファイの到来を待ち望みます。
今世紀も既に15年が過ぎましたが、今世紀のデュファイが誕生する兆しすらみえません。
あるいはそれは一人の天才が登場するというよりは、無数のデュファイが現れるのかもしれませんし、もう既に人知れず世界のいたるところで誕生しているのかもしれません。
若きブーレーズは1951年のシェーンベルクの死去に際し、「シェーンベルクは死んだ」という短い論文を書いています。
Pierre Boulez: Shoenberg is dead
これはもちろん死亡記事などではなくて、無調に歩みを進め、12音技法というセリー技法の端緒を開発しておきながら、それを単純に古典的な形式に適用するなど、セリーそのものの可能性を見過ごし、misuse し続けた彼の諸作品に対する糾弾であり、それらは時代遅れのものであるとしてシェーンベルクの音楽そのものの死亡を宣告する記事でした。
(そしてブーレーズらセリー作曲家たちの出発点の一つとなったのがむしろウェーベルンであったわけです。)
ブーレーズの死去に際し、われわれは何を言えるでしょうか?
もう既に、彼自身の作品は忘れ去られたに等しい状況かもしれません。
少なくともアンサンブル・アンテルコンタンポランが存続している間は、ほそぼそと世界の片隅で演奏されることもあるでしょうが、近い将来、全く演奏されなくなるかもしれません。
そんな風にして20世紀が忘れ去られたとしたら(ブーレーズが20世紀音楽に占める役割は一般にそれほど大きく見積もられないかもしれませんが、そこが第一の問題でしょう)、20世紀を見過ごした21世紀、22世紀の人々の作る音楽が一体いかなる意味や価値を持ちえるというのでしょう。
今一度、21世紀のデュファイの到来を待ち望みつつ、真に終わってしまった20世紀音楽にわずかばかりの感慨を胸にいだきながら、記すことにしましょう。
ブーレーズが死んだ。
2008年05月25日
Oldfield & Zappa
数日前、渋谷のタワレコに行ったときに掘り出し物を二点見付けました.
一つめはマイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズの Part 1 をピアノ二台&シンセサイザー二台、あるいはピアノ4台でやったディスク。(しかも760円。)
もう一つは Ensemble Modern plays Frank Zappa というディスクです。(セール中990円。)
まず一枚目。マイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズと言ってわかる人がどれくらいいるかわかりませんが、映画「エクソシスト」でさわりが使われているので聴けば「あ、あの曲か」とわかる人が多いかもしれません。
この曲はいろんな意味で特異な曲で、その先鋭性からプログレに分類されることが多いようですが、長大な二部構成の曲(それぞれの部分が20分超、つまりLPの両面で一曲と考えた方が良い曲)で、しかも一説によると2300回を越える多重録音でレコーディングされており、数十種類におよぶ楽器の大半をマイク・オールドフィールド一人で演奏しているというものです。
またマイク・オールドフィールドはヴァージンレコードの第一号アーティストであり、19才のときに一年余りを費し完成させたこのLPがいきなり全英一位になり現在までに全世界で1700万枚以上売れているという怪物的なレコードでした。
それで、このピアノ版、まうかめ堂的にはかなりのヒットです。まず、よりによってチューブラー・ベルズをピアノでやろうという発想が秀逸です。そして演奏それ自体もマイク・オールドフィールドのファンを十二分に納得させられる高い水準の出来栄えになっています。そう、プログレに限らずロックの曲なんかをクラッシック系の演奏者がなかばその人の偏愛から取り上げてるような演奏は、しばしば大きく外すことがあるのですが、これはまったくそうでないですね。原曲の本質をしっかり捉えた上で表現手段を変えることで作品を違った角度から照らし出すものになっています。しかも渋谷のタワレコで760円。というわけで非常に良い買いものをしました。
二枚目のザッパもまうかめ堂的には大ヒットなディスクですね。「現代音楽」の演奏家がフランク・ザッパを演奏したディスクというと、Boulez conducts Frank Zappa というディスクを思い出しますが、あれはケッタイなディスクでした。ザッパの奇妙な小規模アンサンブル向け「現代曲」をブーレーズが手兵のアンサンブル・アンテルコンタンポランに演奏させてるCDで、ザッパはストラビやヴァレーズの崇拝者だというだけあって「フツーの現代音楽」を書いても面白いことは面白いんだけど何曲も聴かされるとちょっと…というかんじのものでした。
一方こちらは、ザッパのよりメジャーな曲をクラッシックの小規模アンサンブル向けにアレンジしたもので、アレンジが非常に素晴らしく全然違和感がないばかりか、むしろこの表現形態こそ正解なんじゃないかと思えてくるほどです。(違和感の無い理由の一つは、曲によってはエレキベースをよく効かせていることかもしれません。)
しかし、改めてザッパの発散しきってる才能には驚嘆させられますね。まさに hyper creative とでも言うべきでしょうか。20世紀末にもこれほどまでにヴァイタルな才能が出現しえたということは、21世紀にとっても一つに希望かもしれません。
一つめはマイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズの Part 1 をピアノ二台&シンセサイザー二台、あるいはピアノ4台でやったディスク。(しかも760円。)
もう一つは Ensemble Modern plays Frank Zappa というディスクです。(セール中990円。)
まず一枚目。マイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズと言ってわかる人がどれくらいいるかわかりませんが、映画「エクソシスト」でさわりが使われているので聴けば「あ、あの曲か」とわかる人が多いかもしれません。
この曲はいろんな意味で特異な曲で、その先鋭性からプログレに分類されることが多いようですが、長大な二部構成の曲(それぞれの部分が20分超、つまりLPの両面で一曲と考えた方が良い曲)で、しかも一説によると2300回を越える多重録音でレコーディングされており、数十種類におよぶ楽器の大半をマイク・オールドフィールド一人で演奏しているというものです。
またマイク・オールドフィールドはヴァージンレコードの第一号アーティストであり、19才のときに一年余りを費し完成させたこのLPがいきなり全英一位になり現在までに全世界で1700万枚以上売れているという怪物的なレコードでした。
それで、このピアノ版、まうかめ堂的にはかなりのヒットです。まず、よりによってチューブラー・ベルズをピアノでやろうという発想が秀逸です。そして演奏それ自体もマイク・オールドフィールドのファンを十二分に納得させられる高い水準の出来栄えになっています。そう、プログレに限らずロックの曲なんかをクラッシック系の演奏者がなかばその人の偏愛から取り上げてるような演奏は、しばしば大きく外すことがあるのですが、これはまったくそうでないですね。原曲の本質をしっかり捉えた上で表現手段を変えることで作品を違った角度から照らし出すものになっています。しかも渋谷のタワレコで760円。というわけで非常に良い買いものをしました。
二枚目のザッパもまうかめ堂的には大ヒットなディスクですね。「現代音楽」の演奏家がフランク・ザッパを演奏したディスクというと、Boulez conducts Frank Zappa というディスクを思い出しますが、あれはケッタイなディスクでした。ザッパの奇妙な小規模アンサンブル向け「現代曲」をブーレーズが手兵のアンサンブル・アンテルコンタンポランに演奏させてるCDで、ザッパはストラビやヴァレーズの崇拝者だというだけあって「フツーの現代音楽」を書いても面白いことは面白いんだけど何曲も聴かされるとちょっと…というかんじのものでした。
一方こちらは、ザッパのよりメジャーな曲をクラッシックの小規模アンサンブル向けにアレンジしたもので、アレンジが非常に素晴らしく全然違和感がないばかりか、むしろこの表現形態こそ正解なんじゃないかと思えてくるほどです。(違和感の無い理由の一つは、曲によってはエレキベースをよく効かせていることかもしれません。)
しかし、改めてザッパの発散しきってる才能には驚嘆させられますね。まさに hyper creative とでも言うべきでしょうか。20世紀末にもこれほどまでにヴァイタルな才能が出現しえたということは、21世紀にとっても一つに希望かもしれません。
2008年02月03日
リヒテルのウェーベルン
数日前タワレコに行きました。クロード・エルフェの「夜のガスパール」のディスクはないかと思って行ったのですが、エルフェは見当たらず、で、かわりにポゴレリチを買って帰ったのですが、そこでリヒテルの少しあやしげなライブ録音のディスクを発見。
リヒテルの20世紀ピアノ曲の二枚組です。
一枚目はプロコやストラビで、まあ、その曲の並びは想像しうる範囲内でしたが、二枚目にはなんとウェーベルンやシマノフスキが収録されています。
で、このディスク、試聴できるようになっていて、しかもタワレコの店員さんもわかってますね、二枚目が聴けるようになってました。
おそるおそるウェーベルンを聴いてみると…。
こんな演奏はアリなんだろうか、一言でいうと「濃い!」
こんなに「感情豊か」にたっぷりな演奏は聴いたことがないです。
ウェーベルンの作品には楽譜の最後に作曲者自身による演奏時間の目安が書かれていることが多いのですが、大抵それは目安になっていません。つまり、作曲者の指定したテンポで演奏するとそんなにはかからないだろうという時間が書かれています。
この曲も三楽章合わせて10分と書かれていますが、7分前後で終わってしまうのが普通でしょう。
ところが、リヒテルは本当に10分でやってました。
ロマン派の曲でもそこまでやったら今では大仰だと言われるような演奏をウェーベルンでやってます。こちらの想像の範囲を見事に越えてましたね。
一体これは何なんだろうと考えてみるに、後期ロマン派からシェーンベルクを経てその先にウェーベルンがいると思ってそちらの側から(セリーの側からでなく)やるとこうなるのかなとも思いました。
でも、やりすぎではないかと…。面白いけど。
リヒテルの20世紀ピアノ曲の二枚組です。
一枚目はプロコやストラビで、まあ、その曲の並びは想像しうる範囲内でしたが、二枚目にはなんとウェーベルンやシマノフスキが収録されています。
で、このディスク、試聴できるようになっていて、しかもタワレコの店員さんもわかってますね、二枚目が聴けるようになってました。
おそるおそるウェーベルンを聴いてみると…。
こんな演奏はアリなんだろうか、一言でいうと「濃い!」
こんなに「感情豊か」にたっぷりな演奏は聴いたことがないです。
ウェーベルンの作品には楽譜の最後に作曲者自身による演奏時間の目安が書かれていることが多いのですが、大抵それは目安になっていません。つまり、作曲者の指定したテンポで演奏するとそんなにはかからないだろうという時間が書かれています。
この曲も三楽章合わせて10分と書かれていますが、7分前後で終わってしまうのが普通でしょう。
ところが、リヒテルは本当に10分でやってました。
ロマン派の曲でもそこまでやったら今では大仰だと言われるような演奏をウェーベルンでやってます。こちらの想像の範囲を見事に越えてましたね。
一体これは何なんだろうと考えてみるに、後期ロマン派からシェーンベルクを経てその先にウェーベルンがいると思ってそちらの側から(セリーの側からでなく)やるとこうなるのかなとも思いました。
でも、やりすぎではないかと…。面白いけど。
2008年02月02日
「夜のガスパール」
わけあってこのところラヴェルのピアノ曲をよく聴いています。
(ラヴェルのピアノ曲はスタンコお嬢さんがCDを沢山もっているのでごっそりと借りてきて聴いています。)
なんで突然ラヴェルのピアノ曲というと、メシアンの本を読むためで、もともとラヴェルにすごく興味があるというわけではなくて、むしろメシアンがラヴェルをどう読んでいたのかの方に興味があります。
とはいうものの、ラヴェル自体に関心がないわけではないです。ラヴェルのピアノ曲に関してはパッと見の甘さや官能性に目を奪われていると間違いで、また、ラヴェルはオーケストレイションの達人でもありオケ曲も傑作ぞろいですが、より自由に冒険できたのはむしろピアノ曲の方であっただろうという感じがしているので、その辺り一度きちんと見ておきたいというのがあって聴いています。
で、いきなりですが「夜のガスパール」です。(私の場合、最も singular なものから始める傾向が強いですね。)
スタンコお嬢さんから借りてきたCDを聴き、さらに楽譜を仕入れてきて見て一言「えらいことになってる…。」
技術的な難しさもさることながら(この曲の演奏を聴くというのは、オリンピックを見るようなものですね)、問題は内容的な難しさの方でしょう。
微妙なバランスで宙に浮かせながら物を運ぶようなというか、不安定な停留点に沿って進み続けなければならないというか、どの方向にもちょっとでも転ぶと壊れてしまうようなデリケートさがありますね。
しかもなかなか正体を見せてくれないというか、きらびやかなヴェールの中に本体がいるみたいに思ってヴェールをはがしてみるとそこには何もなくて、ではヴェールの方が本体だったのかと思うとやっぱり中に何かいるみたいに見える、不思議な曲です。
しかし、こんな難曲でもすごい演奏を聴かせてくれるピアニストの方々がいるもので、それらについて勝手ながらランキング形式で感想を述べたいと思います。
1.アルゲリッチ(’75)
これ以上の演奏はなかなか存在しにくいのではないかという演奏ですね。ものすごく精密で繊細なことを、驚くべき精度でやりきっている感じがします。つまり、本当に美しく繊細でありながら、その核においてはきっちり分析的に音楽をとらえていて、その仮想的音像を寸分違わず現実の音として実現してみせている感じがするのです。
特に始めの二曲「オンディーヌ」と「絞首台」は、1000分の1ミリの精度でものを作っているような緊張感があり、「スカルボ」では幾分解放に向かうのだけど、その瞬間にフッと女性的なところが見えてきて、それがまた魅力的に感じます。
2.マガロフ(’69)
きっとほとんど知られていない演奏ですね。ライブ録音です。
アルゲリッチとは対照的に、作りこんで作りこんでという風でなく、手持ちのレパートリーをその日その場の空気に乗ってなかば即興的にという感じなのですが、この迫力、圧巻です。まさに貫禄ですね。
3.ポゴレリチ(’83)
ものすごい enfant terrible、モーツァルトと同じで天使か悪魔かわからない(でも悪魔のほうがちょっと多めの)ような演奏です。すさまじいですね。別の宇宙の音楽を聴いているみたいです。この底知れなさはなんとも形容しがたいですね。
4.ギーゼキング(’37-'38)
録音の古さもあって、深い霧の中から聞こえてくるような「オンディーヌ」が幻想的です。また、このスピードとキレのよさは、生で聴けたらどんなにいいだろうなと思うような演奏です。
5.フランソワ(’67)
某レコ芸関係の本のランキングではアルゲリッチに次いで二位にランキングされてたりする演奏ですが、こんなに下になってしまいました。なんというか力でねじ伏せてる感があるんですね。「クープランの墓」はすごくいいんだけど、「夜のガスパール」は好みでないということになっています。
(ラヴェルのピアノ曲はスタンコお嬢さんがCDを沢山もっているのでごっそりと借りてきて聴いています。)
なんで突然ラヴェルのピアノ曲というと、メシアンの本を読むためで、もともとラヴェルにすごく興味があるというわけではなくて、むしろメシアンがラヴェルをどう読んでいたのかの方に興味があります。
とはいうものの、ラヴェル自体に関心がないわけではないです。ラヴェルのピアノ曲に関してはパッと見の甘さや官能性に目を奪われていると間違いで、また、ラヴェルはオーケストレイションの達人でもありオケ曲も傑作ぞろいですが、より自由に冒険できたのはむしろピアノ曲の方であっただろうという感じがしているので、その辺り一度きちんと見ておきたいというのがあって聴いています。
で、いきなりですが「夜のガスパール」です。(私の場合、最も singular なものから始める傾向が強いですね。)
スタンコお嬢さんから借りてきたCDを聴き、さらに楽譜を仕入れてきて見て一言「えらいことになってる…。」
技術的な難しさもさることながら(この曲の演奏を聴くというのは、オリンピックを見るようなものですね)、問題は内容的な難しさの方でしょう。
微妙なバランスで宙に浮かせながら物を運ぶようなというか、不安定な停留点に沿って進み続けなければならないというか、どの方向にもちょっとでも転ぶと壊れてしまうようなデリケートさがありますね。
しかもなかなか正体を見せてくれないというか、きらびやかなヴェールの中に本体がいるみたいに思ってヴェールをはがしてみるとそこには何もなくて、ではヴェールの方が本体だったのかと思うとやっぱり中に何かいるみたいに見える、不思議な曲です。
しかし、こんな難曲でもすごい演奏を聴かせてくれるピアニストの方々がいるもので、それらについて勝手ながらランキング形式で感想を述べたいと思います。
1.アルゲリッチ(’75)
これ以上の演奏はなかなか存在しにくいのではないかという演奏ですね。ものすごく精密で繊細なことを、驚くべき精度でやりきっている感じがします。つまり、本当に美しく繊細でありながら、その核においてはきっちり分析的に音楽をとらえていて、その仮想的音像を寸分違わず現実の音として実現してみせている感じがするのです。
特に始めの二曲「オンディーヌ」と「絞首台」は、1000分の1ミリの精度でものを作っているような緊張感があり、「スカルボ」では幾分解放に向かうのだけど、その瞬間にフッと女性的なところが見えてきて、それがまた魅力的に感じます。
2.マガロフ(’69)
きっとほとんど知られていない演奏ですね。ライブ録音です。
アルゲリッチとは対照的に、作りこんで作りこんでという風でなく、手持ちのレパートリーをその日その場の空気に乗ってなかば即興的にという感じなのですが、この迫力、圧巻です。まさに貫禄ですね。
3.ポゴレリチ(’83)
ものすごい enfant terrible、モーツァルトと同じで天使か悪魔かわからない(でも悪魔のほうがちょっと多めの)ような演奏です。すさまじいですね。別の宇宙の音楽を聴いているみたいです。この底知れなさはなんとも形容しがたいですね。
4.ギーゼキング(’37-'38)
録音の古さもあって、深い霧の中から聞こえてくるような「オンディーヌ」が幻想的です。また、このスピードとキレのよさは、生で聴けたらどんなにいいだろうなと思うような演奏です。
5.フランソワ(’67)
某レコ芸関係の本のランキングではアルゲリッチに次いで二位にランキングされてたりする演奏ですが、こんなに下になってしまいました。なんというか力でねじ伏せてる感があるんですね。「クープランの墓」はすごくいいんだけど、「夜のガスパール」は好みでないということになっています。
2008年01月21日
20世紀のアルス・ノヴァ
わけあって、「ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書」(ピエール・ブーレーズ著、船山隆、笠羽映子訳)所収の Eventuellement… という原題の論考を十数年ぶりに読みました。(この題を「偶々…」と訳すのは明らかに誤訳でしょう。)
で、もちろん昔読んだときには全くそんな風に思いませんでしたが、これって「20世紀のアルス・ノヴァ」なんじゃないかという風に強烈に感じました。
ここで言うアルス・ノヴァとは、フィリップ・ド・ヴィトリの同名の論文のことを指しています。すなわち、それまでの「古い技法」に対して、計量記譜法(これは即その方法による作品の音楽構造を規定しています)に関してのイノヴェーション(二分割リズムを認めることと、ミニマの導入)を提案・提出した、かの有名な論文のことで、それがそのままその時代・様式の音楽に転用されたおおもとのことです。
で、ブーレーズの Eventuellement… は、まさにそのころその技法による傑作(「ル・マルトー」)を完成させつつあった、セリーの技法に関する非常に具体的な論考です。
私にはこれが、20世紀音楽におけるセリーの技法についてのアルス・ノヴァに見えるのです。
自分の作った曲にすら自分の名前を記さなかったほど慎ましやかだったヴィトリと比べれば、「激怒する職人たち」(ルネ・シャール)を地でいくような若きの日のブーレーズはアグレッシブです。
なんてことまで言ってます。(有名な一節ですが。)
でも、内容的にはさして戦闘的というものでもなくて、19世紀末ぐらいまでの伝統的(因襲的)音楽を、新ウィーン楽派らの資産を元手に、どのように超克していくかが、具体的な方法論とともに示されています。
読むほどにアルス・ノヴァですね。
しかも面白いことに、ここにはマショーやデュファイへの言及があります。
一つ前の記事で、20世紀音楽に言及したのには実はこういう背景があったんです。
というか、この一文は、私の関心が中世音楽に向かう遠因の一つだと言ってもよいものです。
十二音音楽、そしてセリー音楽へといたる道は、大体バッハの時代から19世紀終わりぐらいまでのいわゆるクラシック音楽に慣れ親しんだものにとってはなかなか理解しがたく、また現在学校で教えられているような「標準的な」音楽な規範からすると受け入れ難いものでありえます。
しかしながら、ヴァーグナー以降顕著だった半音階主義の中、調性は一度解体されねばならなかったということを前提とするならば、調性和声、あるいは機能和声に基づいた音楽の構成法を捨て去らなければならなかったことは必然であり、それにかわる新しい音楽の構成法、組織化の方法を探し求める必要があったこともまた必然でしょう。
そうしたときに、シェーンベルクはどの程度自覚していたかはわからないけど、ストラヴィンスキーは極めて直観的に、メシアンとブーレーズは音楽史全体を俯瞰的に見渡す観点からの論理的帰結として、それぞれに、そして常に implicit に中世音楽への参照がなされたということは、今では私には必然のように思えています。
ロマン主義の時代にあまりにも多くのものを背負わされてしまった音楽を解放し、音と人間とのより直接的な結びつきをとりもどすこと。
20世紀音楽、というか上に挙げた作曲家の音楽は、その前の世紀の音楽よりずっと、中世音楽、より正確には十二世紀以降の中世多声音楽に近いと感じています。
すなわち、神の声たる(グレゴリオ)聖歌に対する注釈としての音楽の時代、与えられた神の声=聖歌は既に書き留められ、シンボルとして、記号として操作の対象になっていて、数の学問の一分野たるムジカを修得したマギステルたちが行っていたことは、「宇宙の調和を見つけ出す」という認識の下で、調和=比例関係に基づく音の大伽藍を築き上げることにほかならなかった、そんな時代の音楽にです。
セリー音楽と、ブーレーズも言及しているアイソリズム・モテトに関して言えば、その発想法も、おそらくは作曲のプロセスも、かなり似通っていると言ってよいでしょう。
(結果として得られる音響はだいぶ異なるものになりますが…。
また、20世紀と中世の非常に大きな違いは、20世紀にはもう「神」がいなかったことでしょうか。)
西洋音楽の歴史全体を、ひとまとまりのもの考えたときに、(それは正当なものの見方でしょう。)非常に大きくわけて15世紀ごろから19世紀末までと、それ以外にわける見方がありうるだろうと、私は思っています。これは、音響の性質という観点から、三度を中心にした音の構成法が主流だった時代とそれ以外と言っても良いかもしれません。つまり、響きの性質ががらっと変化した時期がここ2000年ぐらいの間に二回あったということです。
前者は常に中心であり、後者は明らかに周縁です。
そして、多くの人は、(たとえ音楽のプロであっても、)「中心」の論理・観点から非常にしばしば「周縁」を裁いてしまっていることに何の疑念を持たないどころか、そういう事態が生じてしまっていることにすら気づいていないようにも見えます。
私はいまさらいわゆる「現代音楽」を解さない人から20世紀音楽を擁護しようなどという気はまったく起きませんが、中世音楽は、西洋音楽の礎として音楽の卵であると同時に、もはや多くの人々にとってその声をきちんと受け止めることの難しくなってしまった内なる他者です。
中世音楽は、多くの人々が「音楽とはこういうものだ」と認識しているその音楽の正統性を根底から覆す力を内に秘めています。
西洋音楽の歴史は、中世と20世紀を足場として一度脱構築されてよい、ということが一つ前の記事で言いかけたことでした。
ですが、今回も議論が性急に過ぎました。
で、もちろん昔読んだときには全くそんな風に思いませんでしたが、これって「20世紀のアルス・ノヴァ」なんじゃないかという風に強烈に感じました。
ここで言うアルス・ノヴァとは、フィリップ・ド・ヴィトリの同名の論文のことを指しています。すなわち、それまでの「古い技法」に対して、計量記譜法(これは即その方法による作品の音楽構造を規定しています)に関してのイノヴェーション(二分割リズムを認めることと、ミニマの導入)を提案・提出した、かの有名な論文のことで、それがそのままその時代・様式の音楽に転用されたおおもとのことです。
で、ブーレーズの Eventuellement… は、まさにそのころその技法による傑作(「ル・マルトー」)を完成させつつあった、セリーの技法に関する非常に具体的な論考です。
私にはこれが、20世紀音楽におけるセリーの技法についてのアルス・ノヴァに見えるのです。
自分の作った曲にすら自分の名前を記さなかったほど慎ましやかだったヴィトリと比べれば、「激怒する職人たち」(ルネ・シャール)を地でいくような若きの日のブーレーズはアグレッシブです。
つまり十二音音楽語法の必要性を感じたことのない(中略)音楽家は、すべて「無用」である。
なんてことまで言ってます。(有名な一節ですが。)
でも、内容的にはさして戦闘的というものでもなくて、19世紀末ぐらいまでの伝統的(因襲的)音楽を、新ウィーン楽派らの資産を元手に、どのように超克していくかが、具体的な方法論とともに示されています。
読むほどにアルス・ノヴァですね。
しかも面白いことに、ここにはマショーやデュファイへの言及があります。
たしかにリズムをセリー構造に組み入れる必要がある。どのようにしてそれを成し遂げるのか?
逆説的にいえば、その出発点となるのは、ポリフォニーをリズムから引き離すことであろう。保証を必要とするなら、マショーやデュファイのアイソリズム・モテトを挙げればよい。つまり、われわれは、リズム構造にもセリー構造にもまったく対等な重要性を与えるのだ。この[リズムの]領域においても同様に、可能事の網状組織を創りだすこと、それがわれわれの目標である。
一つ前の記事で、20世紀音楽に言及したのには実はこういう背景があったんです。
というか、この一文は、私の関心が中世音楽に向かう遠因の一つだと言ってもよいものです。
十二音音楽、そしてセリー音楽へといたる道は、大体バッハの時代から19世紀終わりぐらいまでのいわゆるクラシック音楽に慣れ親しんだものにとってはなかなか理解しがたく、また現在学校で教えられているような「標準的な」音楽な規範からすると受け入れ難いものでありえます。
しかしながら、ヴァーグナー以降顕著だった半音階主義の中、調性は一度解体されねばならなかったということを前提とするならば、調性和声、あるいは機能和声に基づいた音楽の構成法を捨て去らなければならなかったことは必然であり、それにかわる新しい音楽の構成法、組織化の方法を探し求める必要があったこともまた必然でしょう。
そうしたときに、シェーンベルクはどの程度自覚していたかはわからないけど、ストラヴィンスキーは極めて直観的に、メシアンとブーレーズは音楽史全体を俯瞰的に見渡す観点からの論理的帰結として、それぞれに、そして常に implicit に中世音楽への参照がなされたということは、今では私には必然のように思えています。
ロマン主義の時代にあまりにも多くのものを背負わされてしまった音楽を解放し、音と人間とのより直接的な結びつきをとりもどすこと。
音楽は、その本質からいって、感情、態度、心理状態、自然現象など、いかなるものであっても何ものをも表現する力を持たない、と私は考える。未だかつて表現が音楽の内在的特性であったことはない…。(ストラヴィンスキー)
20世紀音楽、というか上に挙げた作曲家の音楽は、その前の世紀の音楽よりずっと、中世音楽、より正確には十二世紀以降の中世多声音楽に近いと感じています。
すなわち、神の声たる(グレゴリオ)聖歌に対する注釈としての音楽の時代、与えられた神の声=聖歌は既に書き留められ、シンボルとして、記号として操作の対象になっていて、数の学問の一分野たるムジカを修得したマギステルたちが行っていたことは、「宇宙の調和を見つけ出す」という認識の下で、調和=比例関係に基づく音の大伽藍を築き上げることにほかならなかった、そんな時代の音楽にです。
セリー音楽と、ブーレーズも言及しているアイソリズム・モテトに関して言えば、その発想法も、おそらくは作曲のプロセスも、かなり似通っていると言ってよいでしょう。
(結果として得られる音響はだいぶ異なるものになりますが…。
また、20世紀と中世の非常に大きな違いは、20世紀にはもう「神」がいなかったことでしょうか。)
西洋音楽の歴史全体を、ひとまとまりのもの考えたときに、(それは正当なものの見方でしょう。)非常に大きくわけて15世紀ごろから19世紀末までと、それ以外にわける見方がありうるだろうと、私は思っています。これは、音響の性質という観点から、三度を中心にした音の構成法が主流だった時代とそれ以外と言っても良いかもしれません。つまり、響きの性質ががらっと変化した時期がここ2000年ぐらいの間に二回あったということです。
前者は常に中心であり、後者は明らかに周縁です。
そして、多くの人は、(たとえ音楽のプロであっても、)「中心」の論理・観点から非常にしばしば「周縁」を裁いてしまっていることに何の疑念を持たないどころか、そういう事態が生じてしまっていることにすら気づいていないようにも見えます。
私はいまさらいわゆる「現代音楽」を解さない人から20世紀音楽を擁護しようなどという気はまったく起きませんが、中世音楽は、西洋音楽の礎として音楽の卵であると同時に、もはや多くの人々にとってその声をきちんと受け止めることの難しくなってしまった内なる他者です。
中世音楽は、多くの人々が「音楽とはこういうものだ」と認識しているその音楽の正統性を根底から覆す力を内に秘めています。
西洋音楽の歴史は、中世と20世紀を足場として一度脱構築されてよい、ということが一つ前の記事で言いかけたことでした。
ですが、今回も議論が性急に過ぎました。
2007年07月08日
マショーのバラード vs バッハ vs ソナタ形式
先週MIDI 環境の整備が完了したことを書きましたが、せっかくなので何か一曲作りましょうということで、バッハのプレリュードのちょっとした MIDI を「中世以外の音楽のまうかめ堂」の方に up しました。
この曲は私の好きな曲で、難易度も手頃なため、バードの Nevells booke と出会う前はピアノに向かうと必ずこの曲を弾き始めるような曲でした。
MIDI 自体はほんとにたいしたものではありませんが、そういえば去年マショーのバラードを作っていたときに、マショーのバラード&バッハの舞曲形式の鍵盤曲&ソナタ形式について書きそびれていたなぁ、ということを思いだし、この MIDI を up しました。
「マショーのバラード&バッハの舞曲形式の鍵盤曲&ソナタ形式」について一体何を言いたいのかというと、以下のようなことです。
・これらは構造的に同型である。それは形式的なものだけでなくて、音楽の力動的構造の点で同型である。
・すなわち、18、19世紀に隆盛を究めた表現形式であるソナタ形式は、少なくとも14世紀マショーのバラードまで遡れる。
「また、まうかめ堂はとち狂ったか」と思われるかもしれませんが説明します。
まず、上でバッハの舞曲形式の鍵盤曲と言ったものは、フランス組曲やイギリス組曲、あるいは無伴奏チェロ組曲なんかの、アルマンドとかクーラントとかジーグとか舞曲起源の形式の曲を指しています。
それらはそれぞれ性格的に異なるフレイバーを持つ形式ですが、繰り返しのパターンは一様に AABB の形をしています。
一方、中世フランスの定型歌曲の一様式であるバラードは、これも舞曲が起源だとされていますが、その繰り返しのパターンは AAB です。ときどき AABB のように B パートを繰り返すことがあります。
というわけで同じ形をしてますね……ということが言いたいのではなくて、上でもわかりにくく言ったように内容の同型性が見られるということを言いたいです。
さて、野暮ったいことを言うならば、大抵の音楽作品は起承転結というストーリー展開の図式で理解することができます。
バッハの舞曲の場合、(何が「起」で何が「承」かは言う気はありませんが、)B パートのはじめに明確に「転」が来ます。
すなわち、A パートの終わりでフレーズが一旦締めくくられた後、B パートの開始部では和声や調が動いたり、音楽がドラマティックに展開したり、それまでと性格的に逸脱しているようなことがいろいろ起こります。
そして、B パートの後半で元の鞘にまとめてみせると、たとえ一分二分の短い曲であってもひとつのドラマが過不足なくそこに完結することになります。
こういう構造的な図式はバッハに限ったことではないかもしれませんが、バッハにおいてはとりわけ顕著であるように思います。
一方、マショーのバラードにおいてもB パートのはじめに明確に「転」が来て、バッハの舞曲のとき同様なことが起こります。すなわち和声や調が動いたり、音楽がドラマティックに展開したりします。
マショーのバラードの場合、特に注目したいのは、主旋律を担う上声部が、B パートのはじめで高い音域から入ることが多いことです。A パートの終わりの音から比べ、その五度、六度上は当り前、七度八度の跳躍もあります。
さらに、B パートの終わりの部分は、A パートの終わりと全く同一であることも多いことも強調しなくてはなりません。
やはりこういう構造的な図式はマショーに限ったことではなくて、同時代あるいはその後の時代のバラードにも見られるものですが、マショーにおいては性格的にとりわけ顕著です。
で、ソナタ形式ですが、これは上記のバッハの舞曲の力動的な構成を、主題とその展開という構成に敷衍したものに他なりません。
(あ、これは私が勝手にそう思っているわけでは必ずしもないです。たとえば、今、私の手元にある音友の新音楽辞典にもそれを示唆する記述がちゃんとあります。)
実際、モーツァルト以前の初期のソナタ形式の楽章では、本当に AABB の形式をしていることが多いようです。B パートに展開部と再現部が入っていて、展開部が「転」です。
というわけで、マショーのバラード&バッハの舞曲&ソナタ形式は全て構造的に同型である、という認識に至ります。
さて、上の議論で、バロックの舞曲がソナタ形式にすんなりつながっていることには一定の理解が得られるかもしれませんが、バッハの舞曲とマショーのバラードの間に直接的あるいは間接的つながりはあるでしょうか?
すなわちマショーのバラードに見られる構造的な形式が時代から時代へと連綿と受け継がれて、バッハの時代にまでつながっているのか?……
おそらく答えは No だろうと私は思います。
これにはバロックの舞曲形式も、中世のバラードという形式も、もともと民間の舞曲がその起源だったことに注目する必要があると思います。
すなわち、普遍的、あるいは不変なのは AABB という繰り返しのパターンそのものでしょう。(踊りの音楽における一パターンとしてのこの繰り返しの形式は、西洋世界だけのものですらないでしょう。)
その、ある種典型的で単純なパターンを、自身の芸術的な音楽に昇華させていくその発現のさせかたがバッハとマショーで共通していたと考えるのが自然だろうと思います。
別のいい方をするなら、西洋音楽において、17世紀以降の構成についての考え方、発想法、精神性が既に14世紀にもあったということです。
西洋音楽の歴史において、その構築的な側面について、「ギョーム・ド・マショー以来ブーレーズにいたるまで、西洋音楽は構築的であった。」というような記述を見たことがありますが、それはあながち間違いではないかもしれません。
…………
と、なにやら書いてきましたが、(ひさしぶりにまじめな顔でこういうことを書くと照れますが、)比較のため MIDI でも並べておきましょう。
バッハ:プレリュードハ長調: [MIDI]
クレメンティ:ソナチネ第一楽章: [MIDI] (AABBの形のソナタ形式の楽章)
マショー:Biaute qui toutes autres pere(ballade): [MIDI], [mp3].
こうやって並べるとマショーはだいぶ地味に見えてしまいますね。
それにマショーだけ明らかに異質ですし…。
この曲は私の好きな曲で、難易度も手頃なため、バードの Nevells booke と出会う前はピアノに向かうと必ずこの曲を弾き始めるような曲でした。
MIDI 自体はほんとにたいしたものではありませんが、そういえば去年マショーのバラードを作っていたときに、マショーのバラード&バッハの舞曲形式の鍵盤曲&ソナタ形式について書きそびれていたなぁ、ということを思いだし、この MIDI を up しました。
「マショーのバラード&バッハの舞曲形式の鍵盤曲&ソナタ形式」について一体何を言いたいのかというと、以下のようなことです。
・これらは構造的に同型である。それは形式的なものだけでなくて、音楽の力動的構造の点で同型である。
・すなわち、18、19世紀に隆盛を究めた表現形式であるソナタ形式は、少なくとも14世紀マショーのバラードまで遡れる。
「また、まうかめ堂はとち狂ったか」と思われるかもしれませんが説明します。
まず、上でバッハの舞曲形式の鍵盤曲と言ったものは、フランス組曲やイギリス組曲、あるいは無伴奏チェロ組曲なんかの、アルマンドとかクーラントとかジーグとか舞曲起源の形式の曲を指しています。
それらはそれぞれ性格的に異なるフレイバーを持つ形式ですが、繰り返しのパターンは一様に AABB の形をしています。
一方、中世フランスの定型歌曲の一様式であるバラードは、これも舞曲が起源だとされていますが、その繰り返しのパターンは AAB です。ときどき AABB のように B パートを繰り返すことがあります。
というわけで同じ形をしてますね……ということが言いたいのではなくて、上でもわかりにくく言ったように内容の同型性が見られるということを言いたいです。
さて、野暮ったいことを言うならば、大抵の音楽作品は起承転結というストーリー展開の図式で理解することができます。
バッハの舞曲の場合、(何が「起」で何が「承」かは言う気はありませんが、)B パートのはじめに明確に「転」が来ます。
すなわち、A パートの終わりでフレーズが一旦締めくくられた後、B パートの開始部では和声や調が動いたり、音楽がドラマティックに展開したり、それまでと性格的に逸脱しているようなことがいろいろ起こります。
そして、B パートの後半で元の鞘にまとめてみせると、たとえ一分二分の短い曲であってもひとつのドラマが過不足なくそこに完結することになります。
こういう構造的な図式はバッハに限ったことではないかもしれませんが、バッハにおいてはとりわけ顕著であるように思います。
一方、マショーのバラードにおいてもB パートのはじめに明確に「転」が来て、バッハの舞曲のとき同様なことが起こります。すなわち和声や調が動いたり、音楽がドラマティックに展開したりします。
マショーのバラードの場合、特に注目したいのは、主旋律を担う上声部が、B パートのはじめで高い音域から入ることが多いことです。A パートの終わりの音から比べ、その五度、六度上は当り前、七度八度の跳躍もあります。
さらに、B パートの終わりの部分は、A パートの終わりと全く同一であることも多いことも強調しなくてはなりません。
やはりこういう構造的な図式はマショーに限ったことではなくて、同時代あるいはその後の時代のバラードにも見られるものですが、マショーにおいては性格的にとりわけ顕著です。
で、ソナタ形式ですが、これは上記のバッハの舞曲の力動的な構成を、主題とその展開という構成に敷衍したものに他なりません。
(あ、これは私が勝手にそう思っているわけでは必ずしもないです。たとえば、今、私の手元にある音友の新音楽辞典にもそれを示唆する記述がちゃんとあります。)
実際、モーツァルト以前の初期のソナタ形式の楽章では、本当に AABB の形式をしていることが多いようです。B パートに展開部と再現部が入っていて、展開部が「転」です。
というわけで、マショーのバラード&バッハの舞曲&ソナタ形式は全て構造的に同型である、という認識に至ります。
さて、上の議論で、バロックの舞曲がソナタ形式にすんなりつながっていることには一定の理解が得られるかもしれませんが、バッハの舞曲とマショーのバラードの間に直接的あるいは間接的つながりはあるでしょうか?
すなわちマショーのバラードに見られる構造的な形式が時代から時代へと連綿と受け継がれて、バッハの時代にまでつながっているのか?……
おそらく答えは No だろうと私は思います。
これにはバロックの舞曲形式も、中世のバラードという形式も、もともと民間の舞曲がその起源だったことに注目する必要があると思います。
すなわち、普遍的、あるいは不変なのは AABB という繰り返しのパターンそのものでしょう。(踊りの音楽における一パターンとしてのこの繰り返しの形式は、西洋世界だけのものですらないでしょう。)
その、ある種典型的で単純なパターンを、自身の芸術的な音楽に昇華させていくその発現のさせかたがバッハとマショーで共通していたと考えるのが自然だろうと思います。
別のいい方をするなら、西洋音楽において、17世紀以降の構成についての考え方、発想法、精神性が既に14世紀にもあったということです。
西洋音楽の歴史において、その構築的な側面について、「ギョーム・ド・マショー以来ブーレーズにいたるまで、西洋音楽は構築的であった。」というような記述を見たことがありますが、それはあながち間違いではないかもしれません。
…………
と、なにやら書いてきましたが、(ひさしぶりにまじめな顔でこういうことを書くと照れますが、)比較のため MIDI でも並べておきましょう。
バッハ:プレリュードハ長調: [MIDI]
クレメンティ:ソナチネ第一楽章: [MIDI] (AABBの形のソナタ形式の楽章)
マショー:Biaute qui toutes autres pere(ballade): [MIDI], [mp3].
こうやって並べるとマショーはだいぶ地味に見えてしまいますね。
それにマショーだけ明らかに異質ですし…。
2007年02月18日
Stravinsky Experience??
先週のBBC radio3 は、The Tchaikovsky Experience というタイトルでチャイコフスキー&ストラヴィンスキーの全曲放送ということで、まるまる一週間一日24時間、チャイコとストラビばっかりやってました。
(なんと、2月13日の「すたんこ日記」でも言及されています。リアルタイムの放送は終わっていますが、Listen again で放送後一週間以内ならまだ聴けます。)
で、先週はこれのストラビばかりを聴いたり録音したりで忙しかったです(笑)。
未聴の曲やら、珍しい録音を丹念に拾って録音していたら、最終的にファイル数が90を越え、ちょっとづつ mp3 化してサイズを落としているものの、現時点でトータル7Gを越えるデータになっています。(しかも全部ストラヴィンスキー。多分チャイコは一曲も聴いてない…。)
さすがに疲れました(笑)。
というか、まだこんなことにこういうエネルギーの使い方をするパトスが残ってたんだ、なんて思いました。
でも、貴重なものが沢山聴けて本当によかった。
とりわけ、晩年20年間(70才過ぎてから!)のセリー作品がまとめて聴けて良かったです。さすがにこの辺のレパートリーは録音がほとんど無いですね。BBC、ほんとに偉いです。
他に面白いと思ったものは以下のようです。
1.ピアノラ。
ストラヴィンスキーがピアノラ(自動ピアノの一種)を好んでおり、いくつかの曲をこの楽器のために書いているのですが、実際にピアノラの演奏を聴いたことはありませんでした。
しかし、BBCはちゃんとやってくれました。
一つは、管弦楽のための「4つのエチュード」の終曲の元曲マドリッドです。「4つのエチュード」の前三曲の元曲は弦楽四重奏で、それは結構聴く機会があるのですが、終曲のピアノラ版は初めてです。
やっぱり、聴いてみるとストラビが何をしたかったのか納得しますね。
もう一つは、「結婚」のピアノラ版です。
こちらはもの凄いですね。
MIDI ピアノ版「結婚」を作らねば、という気にさせられるものでした。
2.アゴン、二台ピアノ版。
よく知られているように、ストラビは編曲魔です。
意地悪く言うなら、自分が過去に作った曲を違う編成の曲に自分で編曲して、もう一儲けしようと常にしてた人です。(違いましたか。)
で、ピアノ伴奏の歌曲が、奇妙な編成のアンサンブルの伴奏に化けたり、大オーケストラのバレー曲が(二台)ピアノ版になったりしてるのですが、ストラビはそのどちらもが異様に面白いんですね。
この二台ピアノのアゴンも、きっと元はバレーのリハのためのピアノスコアか何かなのでしょうが、いいですね。
珍しいもの聴かせていただきました、という感じです。
3.ストラビ版ジェズアルド。
ストラビは他人の曲も編曲します。
一番有名なのは、事実上ペルゴレージ(その他)の人の作品の編曲なんだけどストラビ作曲という感じになってる「プルチネラ」ですが、一時、ジェズアルドにはまっていたこともありました。
(まあ、これにはジェズアルド生誕400年だったということもありますが…。)
それで二つの編曲?作品が残されています。一つはジェズアルドのマドリガーレの三曲をオケに編曲した Monumentum pro Gesualdo di Venosa, そして、もう一曲は、ジェズアルドの Sacrae cantiones という曲の失われた声部を勝手に補完した Tres sacrae cantiones です。
どちらもやたらと面白いのですが、まず Tres sacrae cantiones 。
「プルチネラ」でも、冒頭からストラビのものとわかる不協和音が忍ばせてあったわけで、こちらも、曲はもちろんジェズアルドなんだけどやっぱりストラビの響きになってるところがすごく面白い作品です。ある意味すごく器用な人です。
ストラビはマショーも熱心に研究してたそうなので、マショーのバラードのコントラテノールを勝手に書きかえるなんてことをやっていてくれたら面白かっただろうなぁ、などと思いました。
Monumentum の方も、ジェズアルドの楽譜をどう読むとこんなことになるのかわからないような作品ですが、古楽 MIDI をちょこちょこと作っている身としては、ちょっと示唆的かもしれませんね。
というのは、日頃、中世の曲を MIDI にするのに、各声部に何の楽器を当てればよいかというので延々と悩むわけですが、いっそのことこのぐらいのことをしてしまっても良いのかもしれないという気にさせられます。
つまり中世 MIDI を作るにあたっては、ノートル・ダム・ミサのオーケストラ版を作るぐらいのことをしてもいいという気にもなってくるのです。
(実際にやるのは難しく、私には不可能ですけどね。)
4.その他。
他に面白いものとしては、例えば、「マヴラ」の「パラーシャの歌」をチェロ&ピアノに編曲したもの (Chanson Russe) を、なんとフルニエが弾いてるなんてものがありました。
あとストラビの歌曲はキャシー・バーベリアン(ルチアノ・ベリオの奥さん)が歌うとなかなかハマるとかですね。
それにしても一週間御苦労様でした。
今日からは、しっかり寝ます。
(なんと、2月13日の「すたんこ日記」でも言及されています。リアルタイムの放送は終わっていますが、Listen again で放送後一週間以内ならまだ聴けます。)
で、先週はこれのストラビばかりを聴いたり録音したりで忙しかったです(笑)。
未聴の曲やら、珍しい録音を丹念に拾って録音していたら、最終的にファイル数が90を越え、ちょっとづつ mp3 化してサイズを落としているものの、現時点でトータル7Gを越えるデータになっています。(しかも全部ストラヴィンスキー。多分チャイコは一曲も聴いてない…。)
さすがに疲れました(笑)。
というか、まだこんなことにこういうエネルギーの使い方をするパトスが残ってたんだ、なんて思いました。
でも、貴重なものが沢山聴けて本当によかった。
とりわけ、晩年20年間(70才過ぎてから!)のセリー作品がまとめて聴けて良かったです。さすがにこの辺のレパートリーは録音がほとんど無いですね。BBC、ほんとに偉いです。
他に面白いと思ったものは以下のようです。
1.ピアノラ。
ストラヴィンスキーがピアノラ(自動ピアノの一種)を好んでおり、いくつかの曲をこの楽器のために書いているのですが、実際にピアノラの演奏を聴いたことはありませんでした。
しかし、BBCはちゃんとやってくれました。
一つは、管弦楽のための「4つのエチュード」の終曲の元曲マドリッドです。「4つのエチュード」の前三曲の元曲は弦楽四重奏で、それは結構聴く機会があるのですが、終曲のピアノラ版は初めてです。
やっぱり、聴いてみるとストラビが何をしたかったのか納得しますね。
もう一つは、「結婚」のピアノラ版です。
こちらはもの凄いですね。
MIDI ピアノ版「結婚」を作らねば、という気にさせられるものでした。
2.アゴン、二台ピアノ版。
よく知られているように、ストラビは編曲魔です。
意地悪く言うなら、自分が過去に作った曲を違う編成の曲に自分で編曲して、もう一儲けしようと常にしてた人です。(違いましたか。)
で、ピアノ伴奏の歌曲が、奇妙な編成のアンサンブルの伴奏に化けたり、大オーケストラのバレー曲が(二台)ピアノ版になったりしてるのですが、ストラビはそのどちらもが異様に面白いんですね。
この二台ピアノのアゴンも、きっと元はバレーのリハのためのピアノスコアか何かなのでしょうが、いいですね。
珍しいもの聴かせていただきました、という感じです。
3.ストラビ版ジェズアルド。
ストラビは他人の曲も編曲します。
一番有名なのは、事実上ペルゴレージ(その他)の人の作品の編曲なんだけどストラビ作曲という感じになってる「プルチネラ」ですが、一時、ジェズアルドにはまっていたこともありました。
(まあ、これにはジェズアルド生誕400年だったということもありますが…。)
それで二つの編曲?作品が残されています。一つはジェズアルドのマドリガーレの三曲をオケに編曲した Monumentum pro Gesualdo di Venosa, そして、もう一曲は、ジェズアルドの Sacrae cantiones という曲の失われた声部を勝手に補完した Tres sacrae cantiones です。
どちらもやたらと面白いのですが、まず Tres sacrae cantiones 。
「プルチネラ」でも、冒頭からストラビのものとわかる不協和音が忍ばせてあったわけで、こちらも、曲はもちろんジェズアルドなんだけどやっぱりストラビの響きになってるところがすごく面白い作品です。ある意味すごく器用な人です。
ストラビはマショーも熱心に研究してたそうなので、マショーのバラードのコントラテノールを勝手に書きかえるなんてことをやっていてくれたら面白かっただろうなぁ、などと思いました。
Monumentum の方も、ジェズアルドの楽譜をどう読むとこんなことになるのかわからないような作品ですが、古楽 MIDI をちょこちょこと作っている身としては、ちょっと示唆的かもしれませんね。
というのは、日頃、中世の曲を MIDI にするのに、各声部に何の楽器を当てればよいかというので延々と悩むわけですが、いっそのことこのぐらいのことをしてしまっても良いのかもしれないという気にさせられます。
つまり中世 MIDI を作るにあたっては、ノートル・ダム・ミサのオーケストラ版を作るぐらいのことをしてもいいという気にもなってくるのです。
(実際にやるのは難しく、私には不可能ですけどね。)
4.その他。
他に面白いものとしては、例えば、「マヴラ」の「パラーシャの歌」をチェロ&ピアノに編曲したもの (Chanson Russe) を、なんとフルニエが弾いてるなんてものがありました。
あとストラビの歌曲はキャシー・バーベリアン(ルチアノ・ベリオの奥さん)が歌うとなかなかハマるとかですね。
それにしても一週間御苦労様でした。
今日からは、しっかり寝ます。
2006年07月22日
ゲルギエフの「はるさい」
ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団の「春の祭典」を聴きました。
前々から「はるさい演奏史を塗りかえた」とか「ブーレーズが知的なアプローチを一般化させたのを野生に戻した」だのいう噂を聞いていたので一度は聴かなきゃと思っていたのですが、いろいろあって聴きそびれていました。
で感想です。
結論を先に言えば「全然たいしたことない」。ダイナミック・レンジが広くてフォルティッシモが大音量なので、それを音楽的な大迫力と勘違いしてるのかもしれませんね。
特にスコアを見ながら聴いたりすると(実は見なくてもだけど)、「ああ、ここではこのパートが聴こえないと嘘なのに消えちゃってる」とか気になっちゃってダメでした…。
それから、ペットやトロンボーンやチューバは派手にバリバリ言わせてるのに、ホルンが全然迫力なくてどうしてもバランスが悪い…何故でしょう?団員の技術的問題か?いやカップリングされてるスクリャビンではちゃんと咆えてるからそうでもないか。
ホルンが十分に咆哮しないと困る箇所沢山あったんだけど…。
でも見所というか面白いところが無いわけでないです。
ときどき和音のバランスが「変」なところがあって、それがちょっと面白いです。つまり、普通はその音あるいそのパート強調しないだろうっていうのが強調されてたりして…。
ストラビは、「ぶつかってる」音を「ぶつかってる」という理由で音量をしぼったりして無闇に回避するとストラビで無くなります。それは本当にゴシャっと塊で聴こえるのがおそらく正解です。響きを統制しようなどと考えてはいけない…。
その点、ゲルギエフは正解が多かったかもしれません。
それに、露骨に反ブーレーズな箇所があるのもちょっと面白かったです。第二部の終わりから二曲目「祖先の儀式」で、弦のトレモロの中に第二部序奏の旋律が「隠されてる」ところがあるのですが、大抵の演奏はそれに派手にアクセントを付けさせたりして「明るい所に引きずり出してる」んですね。ところがゲルギエフは見事に何もさせないで「隠れたまま」にしてて、こういう演奏はちょっと聴いたことがないです。確かに楽譜にはなにも余計な指示は書いてない。
前にショスタコの「革命」の終楽章の最初の方を試聴したときは、大迫力の大盛り上がりのキレてる演奏のように見えて実はものすごく頭がイイ感じがしたので、そういう「はるさい」を期待してたのにちょっと残念でありました。
前々から「はるさい演奏史を塗りかえた」とか「ブーレーズが知的なアプローチを一般化させたのを野生に戻した」だのいう噂を聞いていたので一度は聴かなきゃと思っていたのですが、いろいろあって聴きそびれていました。
で感想です。
結論を先に言えば「全然たいしたことない」。ダイナミック・レンジが広くてフォルティッシモが大音量なので、それを音楽的な大迫力と勘違いしてるのかもしれませんね。
特にスコアを見ながら聴いたりすると(実は見なくてもだけど)、「ああ、ここではこのパートが聴こえないと嘘なのに消えちゃってる」とか気になっちゃってダメでした…。
それから、ペットやトロンボーンやチューバは派手にバリバリ言わせてるのに、ホルンが全然迫力なくてどうしてもバランスが悪い…何故でしょう?団員の技術的問題か?いやカップリングされてるスクリャビンではちゃんと咆えてるからそうでもないか。
ホルンが十分に咆哮しないと困る箇所沢山あったんだけど…。
でも見所というか面白いところが無いわけでないです。
ときどき和音のバランスが「変」なところがあって、それがちょっと面白いです。つまり、普通はその音あるいそのパート強調しないだろうっていうのが強調されてたりして…。
ストラビは、「ぶつかってる」音を「ぶつかってる」という理由で音量をしぼったりして無闇に回避するとストラビで無くなります。それは本当にゴシャっと塊で聴こえるのがおそらく正解です。響きを統制しようなどと考えてはいけない…。
その点、ゲルギエフは正解が多かったかもしれません。
それに、露骨に反ブーレーズな箇所があるのもちょっと面白かったです。第二部の終わりから二曲目「祖先の儀式」で、弦のトレモロの中に第二部序奏の旋律が「隠されてる」ところがあるのですが、大抵の演奏はそれに派手にアクセントを付けさせたりして「明るい所に引きずり出してる」んですね。ところがゲルギエフは見事に何もさせないで「隠れたまま」にしてて、こういう演奏はちょっと聴いたことがないです。確かに楽譜にはなにも余計な指示は書いてない。
前にショスタコの「革命」の終楽章の最初の方を試聴したときは、大迫力の大盛り上がりのキレてる演奏のように見えて実はものすごく頭がイイ感じがしたので、そういう「はるさい」を期待してたのにちょっと残念でありました。
2006年06月29日
バードの鍵盤ポリフォニー
ここのところバードの鍵盤曲(というか Nevells Booke)にずっとはまっていたので、そろそろ中世に戻りたいな、と思っているところなのですが、先週 up した A Gaillards Gygge という曲はどちらかというと鍵盤的なホモフォニックな曲だったので、もう一曲、もっとポリフォニックな曲を作ってみようと思い、A Voluntarie: for my ladye nevell という曲をぽちぽちと打ち込みはじめました。
そこでまた面白い現象に直面しました……といっても言ってしまえば当たり前のことなんですけどね。
私は単旋律の音楽以外の西洋音楽は基本的に全てポリフォニーだと思っている人間です。(特殊な現代曲は除きます。)例えば、主旋律に和音が付いて、みたいなホモフォニックな音楽もポリフォニーの特殊な場合にすぎないと見做しています。
そんなこともあって、ピアノ曲の MIDI を作るときでも4〜5チャンネル使ってパートを割り振り、PANを左右に散らします。あ、別にややこしいことをしてるわけでも何でもなくて左右それぞれの手に2チャンネルずつみたいな感じです。(こうしとくと後で手を加えるときに見やすかったりもします。)
で、それは大抵の場合それなりにうまくいきます。ブーレーズのピアノ・ソナタでさえ大体4、5パートに収めることができます。(ホントですよ。)
では、これこそがまさにポリフォニー音楽であるというバードのこの曲はきっとそのようにしやすいに違いない、と思いきや、これが存外厄介だということに気付きます。ある意味、ブーレーズより厄介です。
どういうことかと言うと、混線や分岐が非常に頻繁に起きるのです。
例えば、上から二番目の声部だなぁと思って進んでいくと途中で一番目と二番目の声部の間に新たな声部が出現していつのまにか三番目の声部に変わっているというようなことが頻繁に起こるのです。
つまり、バードのこの種の音楽は、声楽ポリフォニー的な書法ではあるけれども、声部を直線的に固定する必要がないという自由を、むしろ積極的に利用している鍵盤特有のポリフォニーだと言ってよいようです。
もともと分かれていないものを分けようというのだから不整合が起こるのは当然なのですが、上でも言ったように経験上、大抵はそこそこうまくいくものでした。けど、ここまで悩ましいのはちょっとなかった経験です。
それにしても面白いですね。
バードのこの Nevells Booke はいろんな意味でエキサイティングな曲集です。
そこでまた面白い現象に直面しました……といっても言ってしまえば当たり前のことなんですけどね。
私は単旋律の音楽以外の西洋音楽は基本的に全てポリフォニーだと思っている人間です。(特殊な現代曲は除きます。)例えば、主旋律に和音が付いて、みたいなホモフォニックな音楽もポリフォニーの特殊な場合にすぎないと見做しています。
そんなこともあって、ピアノ曲の MIDI を作るときでも4〜5チャンネル使ってパートを割り振り、PANを左右に散らします。あ、別にややこしいことをしてるわけでも何でもなくて左右それぞれの手に2チャンネルずつみたいな感じです。(こうしとくと後で手を加えるときに見やすかったりもします。)
で、それは大抵の場合それなりにうまくいきます。ブーレーズのピアノ・ソナタでさえ大体4、5パートに収めることができます。(ホントですよ。)
では、これこそがまさにポリフォニー音楽であるというバードのこの曲はきっとそのようにしやすいに違いない、と思いきや、これが存外厄介だということに気付きます。ある意味、ブーレーズより厄介です。
どういうことかと言うと、混線や分岐が非常に頻繁に起きるのです。
例えば、上から二番目の声部だなぁと思って進んでいくと途中で一番目と二番目の声部の間に新たな声部が出現していつのまにか三番目の声部に変わっているというようなことが頻繁に起こるのです。
つまり、バードのこの種の音楽は、声楽ポリフォニー的な書法ではあるけれども、声部を直線的に固定する必要がないという自由を、むしろ積極的に利用している鍵盤特有のポリフォニーだと言ってよいようです。
もともと分かれていないものを分けようというのだから不整合が起こるのは当然なのですが、上でも言ったように経験上、大抵はそこそこうまくいくものでした。けど、ここまで悩ましいのはちょっとなかった経験です。
それにしても面白いですね。
バードのこの Nevells Booke はいろんな意味でエキサイティングな曲集です。
2006年06月21日
My Ladye Nevells Booke の楽譜を入手しました!
ByrdのMy Ladye Nevells Booke の楽譜(現代譜)をとうとう入手いたしました!

パラパラと見てると本当に面白いです。しばらくハマりそうです。
曲ごとの作風がものすごくバラエティに富んでて面白いです。鍵盤楽器特有の書法から声楽ポリフォニーをそのまま鍵盤譜に直したようなものまで、さすがは「英国音楽の父にして鍵盤音楽の父」であるバードです、抽き出しの数が多いです。
それから、機能和声が理論として確立する少し前ということで興味深い色彩がありますね。
というのは、現在の和声の教科書では「禁則」と書かれているようなことがもちろん平気でやられていて、しかもそれがしばしばイイんです。この自由さとおおらかさと、まだまだイノセントな姿が実にいいです。
中世音楽はもっとそうだけど、「偉大なる無知」たる「イノセンス」が古楽と呼ばれるものの大きな魅力の一つなのかもしれません。
逆に言うと、機能和声の理論が現在のような形に定式化されたのは良かったかもしれないけど、それがセントラル・ドグマに奉りあげられてしまったことの弊害はものすごく大きかったのかも、などと思いました。
結局、爛熟の果てに、ドビュッシーみたいに旋法性を再び取り込むとか、半音階主義を徹底して無調に到達するかとか、あまり幸福でない形でないとそこから脱することができなかったわけですね。まさに呪縛です……。
それはさておき、Nevells Booke です。
試みに作りの簡単な曲を一曲 MIDI にしてみました。
7.A Galliard Gygge
もう少し、いろいろ(装飾法、音律等)勉強してから「正式に」どこかに up しようと思います。

パラパラと見てると本当に面白いです。しばらくハマりそうです。
曲ごとの作風がものすごくバラエティに富んでて面白いです。鍵盤楽器特有の書法から声楽ポリフォニーをそのまま鍵盤譜に直したようなものまで、さすがは「英国音楽の父にして鍵盤音楽の父」であるバードです、抽き出しの数が多いです。
それから、機能和声が理論として確立する少し前ということで興味深い色彩がありますね。
というのは、現在の和声の教科書では「禁則」と書かれているようなことがもちろん平気でやられていて、しかもそれがしばしばイイんです。この自由さとおおらかさと、まだまだイノセントな姿が実にいいです。
中世音楽はもっとそうだけど、「偉大なる無知」たる「イノセンス」が古楽と呼ばれるものの大きな魅力の一つなのかもしれません。
逆に言うと、機能和声の理論が現在のような形に定式化されたのは良かったかもしれないけど、それがセントラル・ドグマに奉りあげられてしまったことの弊害はものすごく大きかったのかも、などと思いました。
結局、爛熟の果てに、ドビュッシーみたいに旋法性を再び取り込むとか、半音階主義を徹底して無調に到達するかとか、あまり幸福でない形でないとそこから脱することができなかったわけですね。まさに呪縛です……。
それはさておき、Nevells Booke です。
試みに作りの簡単な曲を一曲 MIDI にしてみました。
7.A Galliard Gygge
もう少し、いろいろ(装飾法、音律等)勉強してから「正式に」どこかに up しようと思います。
BBCのバルトーク
今週のBBC Radio3のComposer of the Weekはバルトークです。バルトークが好きな人、興味がある人にけっこうお勧めです。なかなかいい感じでプログラムが組まれています。
昨日、月曜日の分を聴いたのですが、初期バルトーク、たまに聴くとすごくいいですね。
交響詩「コシュート」、初めてまともに聴きました。もろリヒャルト・シュトラウスな曲ですが、ときどきバルトーク・オリジナルな響きが顔を出すところが面白い…。
それにしても、この曲、バルトークの曲で最もわかりやすい曲かもしれませんね。バルトーク、若いです。
ところがこれ以降、一変して最も難解な作風の時期に突入するところが凄いです。改めてその難解な時期の作品を聴くと、すごくいいですね。
ベートーヴェンにおいては晩年の作品がキーであるように、バルトークはこの時期がキーなのかもしれません。
ちょっとよく聴きなおしてみようかな、と思いました。
昨日、月曜日の分を聴いたのですが、初期バルトーク、たまに聴くとすごくいいですね。
交響詩「コシュート」、初めてまともに聴きました。もろリヒャルト・シュトラウスな曲ですが、ときどきバルトーク・オリジナルな響きが顔を出すところが面白い…。
それにしても、この曲、バルトークの曲で最もわかりやすい曲かもしれませんね。バルトーク、若いです。
ところがこれ以降、一変して最も難解な作風の時期に突入するところが凄いです。改めてその難解な時期の作品を聴くと、すごくいいですね。
ベートーヴェンにおいては晩年の作品がキーであるように、バルトークはこの時期がキーなのかもしれません。
ちょっとよく聴きなおしてみようかな、と思いました。
2006年06月08日
テューダー朝の鍵盤音楽
Myoushin さんがMUSICA ANTIQUAで up されている一連のヴァージナルの音楽の MIDI に触発されて、英国テューダー朝の鍵盤音楽に急速に魅かれつつあります。
特に、一月ほど前に up されたバードの Have with yow to Walsingame の MIDI にはすごく感銘を受けました。
こんな名曲がバードの鍵盤曲にあったんですね。
その後、高名な古楽奏者による同曲の録音を聴いたりすると、そちらはそちらでもちろん面白いのですが、ある観点では Myoushin さん作の MIDI の方が上であることに気付きます。
どういうことかというと、余計な装飾を排し、基本的にべた打ちで要所要所で的確に手を加えていく作りの MIDI の方が、作品の構造的な本質を良く表現しているということです。
つまり、私の聴いた実演の録音では、装飾とルバートによって作品構造が若干見えにくくなっている感があるのですが、その点 Myoushin さんの MIDI では、カラーレーションやプロポルツィオの変化による対比や、後半に向けての構造的なダイナミズムの高まりが、手に取るようにわかります。
実はこういう MIDI がまうかめ堂の理想の一つといえるかもしれません。
すなわち、現実の人の手による演奏をエミュレートすることに重きを置くのではなく、時計じかけの音楽であっても明確な輪郭で作品の本質を描きだすような MIDI を目指すことです。
さて、それで、グレン・グールドの「エリザベス朝のヴァージナル音楽名作選」というディスクを買いました。(上の Walsingame とは別です。グールドは Walsingame を弾いていません。)
ギボンズ、バードに bonus track としてスウェーリンクが録音されているのですが、知りませんした、グールドがこれらの音楽に深い情熱を持っていて、このアルバムがグールドの最高傑作の一つだったとは…。
そもそもグールドを聴くのがものすごく久しぶりです。10年以上ぶりかもしれませんね。私は、バッハの鍵盤音楽の多くを、例えばパルティータ、フランス組曲、イギリス組曲、ゴールトベルクなどをグールドの演奏を通じて知りました。これは良かったのか悪かったのか…。今、思い返すと、「フーガの技法」の最初の10曲をオルガンで弾いたディスクが一番印象に残っていて、それがゴールドベルクなんかより好きかもしれません。
さて、この「エリザベス朝…」ですが、案外違和感ないものだなと思いました。
普通のコンサート・グランド・ピアノで弾いてることも、グールドが弾いていることも…。
たとえは悪いかもしれませんが、アーノンクールの演奏で、ベートーヴェンはちょっとくどいけどモーツァルトの方は面白いというのにちょっと似てるのかなと思いました。
バードのヒュー・アシュトンのグラウンドが特に良いですね。グールドならではの鋭い切れ味の演奏だと思いました。
それで、ライナーノートにグールド自身の文章が引用されていて、それが凄く面白い…。
そこで、はたと気付くのです。
私は、ベートーヴェンでは中期よりも「後期の弦楽四重奏を書いたころ」の方が好きだし、ヴェーベルンは私の好きな作曲家ベスト5に入ってくる人だということを…。
そして何よりも、中世多声音楽こそ「理想的な再現手段を欠いている」音楽の最たるものではないかと…。
またここでは言及されていないけれども、私の偏愛するセリー音楽もまた、「記憶や紙の上での方が良く響く」音楽であるということを…。
いやはや、今まで気が付きませんでした。私の好む音楽が「理想的な再現手段を欠いている」「記憶や紙の上での方が良く響く」という言葉で括られるということを…。
特に、一月ほど前に up されたバードの Have with yow to Walsingame の MIDI にはすごく感銘を受けました。
こんな名曲がバードの鍵盤曲にあったんですね。
その後、高名な古楽奏者による同曲の録音を聴いたりすると、そちらはそちらでもちろん面白いのですが、ある観点では Myoushin さん作の MIDI の方が上であることに気付きます。
どういうことかというと、余計な装飾を排し、基本的にべた打ちで要所要所で的確に手を加えていく作りの MIDI の方が、作品の構造的な本質を良く表現しているということです。
つまり、私の聴いた実演の録音では、装飾とルバートによって作品構造が若干見えにくくなっている感があるのですが、その点 Myoushin さんの MIDI では、カラーレーションやプロポルツィオの変化による対比や、後半に向けての構造的なダイナミズムの高まりが、手に取るようにわかります。
実はこういう MIDI がまうかめ堂の理想の一つといえるかもしれません。
すなわち、現実の人の手による演奏をエミュレートすることに重きを置くのではなく、時計じかけの音楽であっても明確な輪郭で作品の本質を描きだすような MIDI を目指すことです。
さて、それで、グレン・グールドの「エリザベス朝のヴァージナル音楽名作選」というディスクを買いました。(上の Walsingame とは別です。グールドは Walsingame を弾いていません。)
ギボンズ、バードに bonus track としてスウェーリンクが録音されているのですが、知りませんした、グールドがこれらの音楽に深い情熱を持っていて、このアルバムがグールドの最高傑作の一つだったとは…。
そもそもグールドを聴くのがものすごく久しぶりです。10年以上ぶりかもしれませんね。私は、バッハの鍵盤音楽の多くを、例えばパルティータ、フランス組曲、イギリス組曲、ゴールトベルクなどをグールドの演奏を通じて知りました。これは良かったのか悪かったのか…。今、思い返すと、「フーガの技法」の最初の10曲をオルガンで弾いたディスクが一番印象に残っていて、それがゴールドベルクなんかより好きかもしれません。
さて、この「エリザベス朝…」ですが、案外違和感ないものだなと思いました。
普通のコンサート・グランド・ピアノで弾いてることも、グールドが弾いていることも…。
たとえは悪いかもしれませんが、アーノンクールの演奏で、ベートーヴェンはちょっとくどいけどモーツァルトの方は面白いというのにちょっと似てるのかなと思いました。
バードのヒュー・アシュトンのグラウンドが特に良いですね。グールドならではの鋭い切れ味の演奏だと思いました。
それで、ライナーノートにグールド自身の文章が引用されていて、それが凄く面白い…。
『ソールズベリー卿のパヴァーヌとガヤルド』のような中途半端な技巧的作品の中でも、音階やトリルを必要な箇所にそれなりに盛り込んでいるにも関わらず、極めて美しい作品だが、理想的な再現手段を欠いているという印象を拭い去ることができない。後期の弦楽四重奏を書いたころのベートーヴェン、または、ほとんどの時期のヴェーベルンのように、ギボンズは扱いにくい作曲家なのだ。少なくとも鍵盤楽器の分野では、共鳴板を通してより、記憶や紙の上での方が良く響くのである。
そこで、はたと気付くのです。
私は、ベートーヴェンでは中期よりも「後期の弦楽四重奏を書いたころ」の方が好きだし、ヴェーベルンは私の好きな作曲家ベスト5に入ってくる人だということを…。
そして何よりも、中世多声音楽こそ「理想的な再現手段を欠いている」音楽の最たるものではないかと…。
またここでは言及されていないけれども、私の偏愛するセリー音楽もまた、「記憶や紙の上での方が良く響く」音楽であるということを…。
いやはや、今まで気が付きませんでした。私の好む音楽が「理想的な再現手段を欠いている」「記憶や紙の上での方が良く響く」という言葉で括られるということを…。