東北や関東では依然毎日のように余震が続いておりますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
震災の直後ぐらいから、かならずしも地震と関係なく、海外からの「まうかめ堂」宛のメールが増えて、「地震大丈夫か」的なことも必ずかかれていましたが、その中に J. Herndon さんからのメールがありました。
内容は「まうかめ堂の Alle, psalite cum, luya の譜を元にギター編曲を作ったのだけど今度作る新しいサイトに載せていいですか」という問い合わせで、この曲のタブ譜付きのギター編曲の楽譜が添付されていました。
中世のモテトのギター編曲という発想がとても面白く、もちろんそういう目的にまうかめ堂の楽譜を利用して下さるのは大歓迎ですので即OKだったわけですが、数日前にその新しいサイトが「出来ました」という連絡をもらいました。
それが次のサイトです。
Mediaeval Guitar: Guitar Tablatures of Mediaeval, Renaissance, and Baroque Music
で、見てみると Alle, psalite cum, luya の編曲譜が MIDI 付きで up されていたほか、ノートル・ダム・ミサのキリエやパレストリーナのミサ、John Farmer の曲などのギター編曲が up されているではないですか。面白いです。
(ただノートル・ダム・ミサに関しては音の「間違い」がちらほらありそうです。)
まうかめ堂的に大ヒットだったのがバッハのロ短調ミサの Agnus Dei のギター編曲です。ロ短調ミサをギターで演奏するなんて発想は私にはありませんでしたね。
Herndon さんは「いろいろな曲をアレンジしたい」と仰っていますので、今後も楽しみなサイトです。みなさんチェックしましょう。
2011年04月24日
2011年03月06日
教会旋法と音階
このところ教会旋法についてのページを作っているのですが、それを読まれた Clara さんから質問がありました。
> 此処で質問なのですが、Aを終始音にもつ音階はDを終始音に
> もつものと同種となっていますが、後期ルネッサンス期には
> 第9旋法から第12旋法まであります。
>
> これは支配音などに関する定義が時代の変遷により変わった
> のでしょうか。
この質問を最初に見たときには実は意味がよくわからなかったのですが、よくよく質問の意味を考えてみると極めて自然に出てくる疑問であることがわかってきました。ここではこれに対する答えを書きたいと思います。
さて、教会旋法というものをどういう風に理解するかということについて、いろいろなレベルの理解、そして様々なやり方での理解がありえるでしょうが、一つのよくある説明は、「音階」をずらずら並べて「これが教会旋法だ」と説明するやりかたでしょう。
これは、多くの本でされているやりかたと言ってよいでしょうが、私はこのやり方に基本的に賛成できません。なぜなら、その説明を読んだ人にはその「音階」だけが頭に残って、旋法についての正しい知識が伝わりにくいように思われるからです。
仮に正格プロトゥス(第一旋法、ドリア)、すなわちDをフィナリス(終止音)とする正格旋法を、Dから始まる1オクターヴの音階のことだというふうに理解していたとしましょう。このように、旋法は特定の音階のことであると理解した上で、「教会旋法2」の「アフィニタスとアッフィナリス」なる文書を読んだとすると、そこには「Aをフィナリスとする聖歌はDをフィナリスとする聖歌と同様にプロトゥスに分類される」と書かれているので、質問にある「Aを終始音にもつ音階はDを終始音にもつものと同種となってい」るという理解が生じると考えられます。(正しいでしょうか?)
一方16世紀のグラレアーヌスの12旋法理論ではAから始まるオクターヴの音階は第9旋法(エオリア旋法)と呼ばれDから始まる音階の第1旋法と区別されます。すると、旋法の定義が時代が変遷する途中のどこかで変わったのではないのか、という疑問が自然に生じます。
私は Clara さんの質問をこのように理解したのですが正しいでしょうか?
質問の意味がこうだったと仮定してこれに答えるなら、グラレアーヌスと中世では旋法のとらえ方が若干異なるようだ、というのがまず第一の答えでしょう。
(ただ私はグラレアーヌスの理論については中世の旋法理論ほどには詳しく検討していないので、なにがどうなっているのかはっきりと答えることができません。)
ここで、もしかしたらいくつかの誤解が生じる可能性があるかもしれないので、いくつか注意しておきたいと思います。
まず、もし、中世の旋法理論において、教会旋法のそれぞれの旋法をあるオクターヴの「音階」のことだと思っているとしたら、これは厳密には正確でないでしょう。また「教会旋法は終止音と「支配音」とで決定される」と理解していたとしたら、これも正確でないでしょう。(たとえなにかの本にそのような説明がされていたとしても。)
中世の文献を読む限り、もっとも基本的と思われるのは、まず第一に、教会旋法とは聖歌の分類の規則、あるいはその種類と理解するのがよいということ(「音階」のことだというわけではない)、そして第二に、分類のやりかたは「教会旋法1」に書いたように、フィナリス(終止音)とアンビトゥス(音域)によってなされるのが基本であること(やはり「音階」のことではない)です。
ではフィナリスによる分類でポイントとなるのは何かというと、フィナリスとその周囲の音たちとの音程関係です。具体的には、プロトゥス旋法のDの場合、グイドの説明によれば、Dから下には全音下がることができ、Dから上には全音、半音、全音、全音と上がることができるというのがプロトゥスを特徴づける要件ということになります。これはCDEFGaという6度内の音程関係で下から2番めのDに終止するというのがプロトゥス旋法の要件だと言ってよいでしょう。
逆に言うならば、この範囲外、すなわちCの下そしてaの上に現れるのがbナチュラルであってもbフラットであってもその曲はプロトゥス旋法だということになります。
すなわち第一旋法は、あえてオクターヴの「音階」の言葉で理解するならば、DEFGab(ナチュラル)cd という「音階」に属する曲だけでなく、bにフラットの付くような、現代でいうところの二短調の「音階」に属する曲も第一旋法に分類されることになるわけです。
さて、二短調の音階を五度上に移高するならば、a の上の変化音の無いオクターヴの音階になります。グレゴリオ聖歌では移高が自由だったことを考慮に入れるなら、a の上のオクターヴの音階に属する曲もプロトゥス旋法ということになると考えるのは自然でしょう。
以上が、ある意味11世紀ごろ完成された中世の旋法理論のエッセンスだろうと思います。
一方グラレアーヌスの理論については、上で書いたように私は十分にそれを理解しているわけではないのですが、たしかに旋法を(フィナリス付きの)オクターヴの音階と理解しているように見えます。なのでDから始まる音階で示される第1旋法とaから始まる音階で表される第9旋法は別ものということになります。
では、この旋法に対する理解の違い、変化は、いつごろからのものなのかというと、オクターヴの音階(オクターヴ種)が旋法概念の中核になるようになったのはやはり16世紀以降のことのようです。そしてこれはグラレアーヌス一人に限ったことでは無くてかなり一般的な変化であったようです。
多分この辺りのことは次を読めばわかるだろうと思います。
Doleres Pesce: The Affinities and Medieval Transposition, Indiana Universit Press, 1987.
この本の第5章は The rise of octave species theory と題されていて、1520年代から、オクターヴ種の理論がさかんになったと書かれています。
> 此処で質問なのですが、Aを終始音にもつ音階はDを終始音に
> もつものと同種となっていますが、後期ルネッサンス期には
> 第9旋法から第12旋法まであります。
>
> これは支配音などに関する定義が時代の変遷により変わった
> のでしょうか。
この質問を最初に見たときには実は意味がよくわからなかったのですが、よくよく質問の意味を考えてみると極めて自然に出てくる疑問であることがわかってきました。ここではこれに対する答えを書きたいと思います。
さて、教会旋法というものをどういう風に理解するかということについて、いろいろなレベルの理解、そして様々なやり方での理解がありえるでしょうが、一つのよくある説明は、「音階」をずらずら並べて「これが教会旋法だ」と説明するやりかたでしょう。
これは、多くの本でされているやりかたと言ってよいでしょうが、私はこのやり方に基本的に賛成できません。なぜなら、その説明を読んだ人にはその「音階」だけが頭に残って、旋法についての正しい知識が伝わりにくいように思われるからです。
仮に正格プロトゥス(第一旋法、ドリア)、すなわちDをフィナリス(終止音)とする正格旋法を、Dから始まる1オクターヴの音階のことだというふうに理解していたとしましょう。このように、旋法は特定の音階のことであると理解した上で、「教会旋法2」の「アフィニタスとアッフィナリス」なる文書を読んだとすると、そこには「Aをフィナリスとする聖歌はDをフィナリスとする聖歌と同様にプロトゥスに分類される」と書かれているので、質問にある「Aを終始音にもつ音階はDを終始音にもつものと同種となってい」るという理解が生じると考えられます。(正しいでしょうか?)
一方16世紀のグラレアーヌスの12旋法理論ではAから始まるオクターヴの音階は第9旋法(エオリア旋法)と呼ばれDから始まる音階の第1旋法と区別されます。すると、旋法の定義が時代が変遷する途中のどこかで変わったのではないのか、という疑問が自然に生じます。
私は Clara さんの質問をこのように理解したのですが正しいでしょうか?
質問の意味がこうだったと仮定してこれに答えるなら、グラレアーヌスと中世では旋法のとらえ方が若干異なるようだ、というのがまず第一の答えでしょう。
(ただ私はグラレアーヌスの理論については中世の旋法理論ほどには詳しく検討していないので、なにがどうなっているのかはっきりと答えることができません。)
ここで、もしかしたらいくつかの誤解が生じる可能性があるかもしれないので、いくつか注意しておきたいと思います。
まず、もし、中世の旋法理論において、教会旋法のそれぞれの旋法をあるオクターヴの「音階」のことだと思っているとしたら、これは厳密には正確でないでしょう。また「教会旋法は終止音と「支配音」とで決定される」と理解していたとしたら、これも正確でないでしょう。(たとえなにかの本にそのような説明がされていたとしても。)
中世の文献を読む限り、もっとも基本的と思われるのは、まず第一に、教会旋法とは聖歌の分類の規則、あるいはその種類と理解するのがよいということ(「音階」のことだというわけではない)、そして第二に、分類のやりかたは「教会旋法1」に書いたように、フィナリス(終止音)とアンビトゥス(音域)によってなされるのが基本であること(やはり「音階」のことではない)です。
ではフィナリスによる分類でポイントとなるのは何かというと、フィナリスとその周囲の音たちとの音程関係です。具体的には、プロトゥス旋法のDの場合、グイドの説明によれば、Dから下には全音下がることができ、Dから上には全音、半音、全音、全音と上がることができるというのがプロトゥスを特徴づける要件ということになります。これはCDEFGaという6度内の音程関係で下から2番めのDに終止するというのがプロトゥス旋法の要件だと言ってよいでしょう。
逆に言うならば、この範囲外、すなわちCの下そしてaの上に現れるのがbナチュラルであってもbフラットであってもその曲はプロトゥス旋法だということになります。
すなわち第一旋法は、あえてオクターヴの「音階」の言葉で理解するならば、DEFGab(ナチュラル)cd という「音階」に属する曲だけでなく、bにフラットの付くような、現代でいうところの二短調の「音階」に属する曲も第一旋法に分類されることになるわけです。
さて、二短調の音階を五度上に移高するならば、a の上の変化音の無いオクターヴの音階になります。グレゴリオ聖歌では移高が自由だったことを考慮に入れるなら、a の上のオクターヴの音階に属する曲もプロトゥス旋法ということになると考えるのは自然でしょう。
以上が、ある意味11世紀ごろ完成された中世の旋法理論のエッセンスだろうと思います。
一方グラレアーヌスの理論については、上で書いたように私は十分にそれを理解しているわけではないのですが、たしかに旋法を(フィナリス付きの)オクターヴの音階と理解しているように見えます。なのでDから始まる音階で示される第1旋法とaから始まる音階で表される第9旋法は別ものということになります。
では、この旋法に対する理解の違い、変化は、いつごろからのものなのかというと、オクターヴの音階(オクターヴ種)が旋法概念の中核になるようになったのはやはり16世紀以降のことのようです。そしてこれはグラレアーヌス一人に限ったことでは無くてかなり一般的な変化であったようです。
多分この辺りのことは次を読めばわかるだろうと思います。
Doleres Pesce: The Affinities and Medieval Transposition, Indiana Universit Press, 1987.
この本の第5章は The rise of octave species theory と題されていて、1520年代から、オクターヴ種の理論がさかんになったと書かれています。
2011年01月01日
謹賀新年
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいいたします。
さて、昨年も順調に更新が滞っておりますが、今年も昨年程度できれば良い方かなと思っております。
新年のMIDIはなんとなくマショーのヴィルレーです。
今年もよろしくおねがいいたします。
さて、昨年も順調に更新が滞っておりますが、今年も昨年程度できれば良い方かなと思っております。
新年のMIDIはなんとなくマショーのヴィルレーです。
- Guillaume de Machaut: Se je souspir (virelai)
- mp3: [mp3, 1.1M]
- MIDI: [GM], [SC-88]
- mp3: [mp3, 1.1M]
2010年04月08日
ヘクサコルドの発展史におけるバタフライ効果?
再びグイド・ダレッツォの本についてです。
Stefano Mengozzi, The Renaissance Reform of Medieval Music Theory: Guido of Arezzo between Myth and History, Cambridge University Press, 2010.
ut-re-mi-fa-sol-la のソルミゼーションはグイドの同時代には、理論としては、それほど流行らなかったそうなんですが、後の時代にヘクサコルドの理論として全音階システムそのものを基礎付けるほどの重要な位置にまで昇格します。
どうもこの大躍進の端緒となったのがグイドの「ミクロログス」という超有名論文を注釈した「メトロログス」という13世紀の論文のある箇所だとのことです。
そもそも「ミクロログス」はグイドの著作でありながら ut-la のシラブルによる音名が全く出てこないのですが、「メトロログス」ではそれを書き換えて、ut-la のシラブルで表される6つの音が「全てのハーモニーの基礎である」というようなことをぽろっと言っちゃったみたいで、それがヘクサコルド大出世の一番おおもとの原因だと上の本には書かれています。
それを表現するのに次のような一文が出てきてまうかめ堂的に無茶苦茶大ウケでした。
こんなところにバタフライ効果の比喩が出てくるなんて…。
Stefano Mengozzi, The Renaissance Reform of Medieval Music Theory: Guido of Arezzo between Myth and History, Cambridge University Press, 2010.
ut-re-mi-fa-sol-la のソルミゼーションはグイドの同時代には、理論としては、それほど流行らなかったそうなんですが、後の時代にヘクサコルドの理論として全音階システムそのものを基礎付けるほどの重要な位置にまで昇格します。
どうもこの大躍進の端緒となったのがグイドの「ミクロログス」という超有名論文を注釈した「メトロログス」という13世紀の論文のある箇所だとのことです。
そもそも「ミクロログス」はグイドの著作でありながら ut-la のシラブルによる音名が全く出てこないのですが、「メトロログス」ではそれを書き換えて、ut-la のシラブルで表される6つの音が「全てのハーモニーの基礎である」というようなことをぽろっと言っちゃったみたいで、それがヘクサコルド大出世の一番おおもとの原因だと上の本には書かれています。
それを表現するのに次のような一文が出てきてまうかめ堂的に無茶苦茶大ウケでした。
In hindsight, this excerpt may be viewed as the initial fluttering of the butterfly that will lead to a powerful hurricane in a different place and time... (p.61)
後知恵では、この抜粋は、異なる地域と時代において強力なハリケーンを導くことになる蝶の最初の羽ばたきとして見ることができる…
こんなところにバタフライ効果の比喩が出てくるなんて…。
2010年04月04日
Clavis, Clef そして Key
ト音記号やヘ音記号などの音部記号を英語では G-clef や F-clef など clef と言いました。また、調のことを英語で key と言ったりもします。この辺のことが、どうしてこういう風に言われるのか、あまり考えもしませんでしたが、ある本を読んでいて唐突にその起源がわかりました。
ある本とは次です。
Stefano Mengozzi, The Renaissance Reform of Medieval Music Theory: Guido of Arezzo between Myth and History, Cambridge University Press, 2010.
これは11世紀に Guido d'Arezzo によって開発されたという中世・ルネサンスにおけるソルミゼーションであるヘクサコルド hexachord (一言で言うとドレミの原型です)がその後の時代にどのように用いられていたのかを、特にそれまでに既にあった G-A-B-... という七音の音名の体系の用いられかたとの対比によって探っている本(のよう)です。(まだ、あんまり読んでません。)
なかなかヘクサコルドというのは、明解ではあるけれどもよくよく考えてみるとちょっと不思議な理論で、どうもしっくりこないところが残るので、まうかめ堂は中世音楽のサイトでありながら言及を避けてきたのですが、この本を読むともう少しすっきりしそうです。
で、本題の Clef や Key です。
上の本の中にこんな記述がありました。(以下、だいぶいい加減な訳による引用です。)
えっ!そうだったの!という感じですが、これで表題の三つのもの Clavis, Clef そして Key がつながりました。
Clavis は正に鍵を意味するラテン語です。(複数形が Claves) また、それは、中世・ルネサンス期には上の音部記号という意味を超えて多様に用いられた音楽用語でもあります。
最初に書いたように Clef は音部記号の意味であり、かつその意味でしか用いられない英語のようですが、その大本は Clavis ということになりそうです。
そして Key. これがなぜ調を表すのか、いままで私には謎でしたが、なんというか「鍵」という意味を経由して英語に「調」の意味として入りこんだということになるわけですね。
なんというか clavis というラテン語の多義性によって英語の key の多義性が impose されるとでもいうべき状況でしょうか…。
上の引用に「多くの中世の理論家たちが指摘しているように」というのがありました。
気になったので TML で clavis で検索をかけてみたら、大量に引っかかってとても全部見きれませんでしたが、それっぽいものが一つ見付かりました。
13世紀の論文で、 Elias Salomo という人の Scientia artis musicae (「音楽技法の知識」)という文書の中にこんな一文がありました。
この部分はいわゆる「グイドの手」を論じている章の一部で、上で sex punctos とあるのはおそらくヘクサコルドの六つの音名 ut-re-mi-fa-sol-la のことでしょうね。
音楽に対して aperire なんて語を使っているのは面白いですね。
ある本とは次です。
Stefano Mengozzi, The Renaissance Reform of Medieval Music Theory: Guido of Arezzo between Myth and History, Cambridge University Press, 2010.
これは11世紀に Guido d'Arezzo によって開発されたという中世・ルネサンスにおけるソルミゼーションであるヘクサコルド hexachord (一言で言うとドレミの原型です)がその後の時代にどのように用いられていたのかを、特にそれまでに既にあった G-A-B-... という七音の音名の体系の用いられかたとの対比によって探っている本(のよう)です。(まだ、あんまり読んでません。)
なかなかヘクサコルドというのは、明解ではあるけれどもよくよく考えてみるとちょっと不思議な理論で、どうもしっくりこないところが残るので、まうかめ堂は中世音楽のサイトでありながら言及を避けてきたのですが、この本を読むともう少しすっきりしそうです。
で、本題の Clef や Key です。
上の本の中にこんな記述がありました。(以下、だいぶいい加減な訳による引用です。)
A-G の文字は claves ("keys") としても知られていた。なぜなら、それらは譜表の始めに置かれ、ピッチを紛れなく示すための "clefs" として用いられたからだ。(多くの中世の理論家たちが指摘しているように、鍵が錠を開けるのと同じ風に、それら(claves)は読む者に楽譜を開ける(unlock)ことを可能にするのである。(p.7)
えっ!そうだったの!という感じですが、これで表題の三つのもの Clavis, Clef そして Key がつながりました。
Clavis は正に鍵を意味するラテン語です。(複数形が Claves) また、それは、中世・ルネサンス期には上の音部記号という意味を超えて多様に用いられた音楽用語でもあります。
最初に書いたように Clef は音部記号の意味であり、かつその意味でしか用いられない英語のようですが、その大本は Clavis ということになりそうです。
そして Key. これがなぜ調を表すのか、いままで私には謎でしたが、なんというか「鍵」という意味を経由して英語に「調」の意味として入りこんだということになるわけですね。
なんというか clavis というラテン語の多義性によって英語の key の多義性が impose されるとでもいうべき状況でしょうか…。
上の引用に「多くの中世の理論家たちが指摘しているように」というのがありました。
気になったので TML で clavis で検索をかけてみたら、大量に引っかかってとても全部見きれませんでしたが、それっぽいものが一つ見付かりました。
13世紀の論文で、 Elias Salomo という人の Scientia artis musicae (「音楽技法の知識」)という文書の中にこんな一文がありました。
Quid est clavis in hac arte? Clavis est scientiam artis musicae aperiens artificialiter per septem litteras et sex punctos
この技法において clavis とは何か? Clavis
は7つの文字と六つの punctos を通じて音楽を開ける(aperire)技法の知識である。
この部分はいわゆる「グイドの手」を論じている章の一部で、上で sex punctos とあるのはおそらくヘクサコルドの六つの音名 ut-re-mi-fa-sol-la のことでしょうね。
音楽に対して aperire なんて語を使っているのは面白いですね。
2010年03月26日
MONO-POLI
バリトン歌手の松平敬さんの一人多重録音アカペラCD、MONO-POLI を聴いてみましたので感想を書きたいと思います。
このディスクの内容はかなり凄くて、「夏は来たりぬ」のカノンから、松平氏本人の自作曲まで、700年超に及ぶ全31曲を全て一人で演奏されています。そのチャレンジングな内容と、これだけのディスクを作り上げるのに要した手間ひまには本当に頭の下がる思いがします。演奏のクオリティーも非常に高く、一聴の価値ありだと思います。
そういうわけでまうかめ堂的大絶賛のディスクです、と言いたいところだったのですが、実際にそう言おうとすると、若干の齟齬の感覚が残ります。一体このひっかかる感じはなんなのだろう???、と、もやもやしているのですが、それをはっきり言語化しようとして、今これを書いています。
前述のように、中世からルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、近代、戦後の前衛音楽そして現在にいたるまできわめて広範なレパートリーが録音されていて、しかも終わりに置かれたマショーの「我が終わりは我が始まり」の逆行カノンにならって、曲順は古い作品から新しい作品へと順に進み、ちょうど真ん中に置かれた氏の最新の自作で折り返し、また古い作品へと進んで行くという凝ったつくりになっています。
しかもその選曲にはそのカノンという軸線を通し、さまざまな時代のさまざまなカノンが配されているという念の入れようです。
で、これは確かに面白い趣向であって、若いころの私だったらきっと喝采を送ったにちがいありません。しかし、どうもこれを手放しで絶賛できないのは、少々意地悪く聞こえるいい方をするなら、思い付きをやってみました以上の意図が見当たらないことにあります。
例えば、さまざまな時代のさまざまな音楽が雑然と並んでいるという印象が拭えません。唯一の軸線たるカノンについても、色んなものをとにかく集めてみました程度の極めて弱いつながりしか感じとれないのがとても残念に思います。せっかく魅力的なテーマを設定しているのだから、中世以来現在に至るまで、その表層的な装いを絶えず変化させながら営まれてきた、カノンという実践の精髄が聴こえてくるような作りになってると良かったのにな、なんてことを思ってしまいます。
また一人多重録音ということに関して、クラシック音楽に於ける録音が生演奏の代替物、あるいは記録という認識が未だ強いことに抗して、音素材への現代テクノロジーの積極的な介入によるサウンドクリエイティング(ポピュラー音楽では既に当り前のこと)への強い意志が自身の手による解説から窺うことができ、そのことにはとても共感を覚えるのですが、実際それがどれほどの水準で達せられているかというと、それほど高いところまで到達しているようには見えないことも残念に思う点です。
もちろん松平氏は声楽のエキスパートであり、それぞれの音素材の素晴らしさについては私がどうこう言えるものではないのですが、次のような感想を持ちます。
「夏は来たりぬ」の演奏がルネサンス音楽の部屋における布袋厚さんの演奏を本質的に越えているかというと、そうでは無いと思います。
13世紀のモテト Alle psallite cum luya の演奏が、この演奏が参照していると思われるマンロウの演奏より魅力的かというと、これもそうではありません。
15世紀イギリスのキャロル Lullay... がアノニマス4より美しいかというと、これもそうとは感じません。
つまり、折角一人多重録音という「茨の道」を果敢に進んでいるのに、そのことが真に効を奏している曲があまりに少ないと思うのです。
私が思うにこのやりかたがその威力を遺憾なく発揮している曲は、ケージの二曲と松平氏の自作曲の3曲だけのように思います。
惜しいのはリゲティの Lux aeterna ですね。これ、サンプリングでやったら面白かったんじゃないかと思います。実はこの曲、私が「初音ミク」に歌わせたいと思う曲の一つでした。
また、私の感覚ではこのディスクを、次のものたちよりも低く評価せざるをえません。
グレン・グールドのいくつかのディスク
富田勲の最良の作品
マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」
ブーレーズの「春の祭典」の最初の録音(自身の分析論文を「鳴らす」ために実演ではありえないバランスのミキシングがされている箇所があります)
スティングによる Dowland: Can you excuse my wrongs
というわけで齟齬の感覚についての結論が出ました。
つまり、試みは素晴らしいが、それが必ずしも十全に生きているわけではない、です。
さて、音楽それ自体についての感想は大体以上ですが、松平氏自身の手による解説でいくつか気になる点がありますので少し書きたいと思います。
まず「夏は来たりぬ」のカノンの成立年代が「1240年頃」とされていますが、これは誤りで、「1280から1310年ごろ」というのがきちんとした実証研究による現在の結論であるようです。ただ、イギリス人研究者は現在でもあれこれ理由をつけて「1240年頃」説を固持しようとするそうなので、この場合に限っては彼らの言うことを信ずるべきではないでしょう。
また「カノンとは、自然界にありふれた「こだま」の効果を音楽化したものだ」とありますが、これはいかがなものかと…。
なんというか、それは、例えば「太古の人類が感きわまって叫び声を上げたとき、音楽が誕生した」なんていうのと同程度の深さの意味しか持ちえない命題に聞こえます。
これに対してはいろいろなことが言えますが、まずカノンの原義にもどるなら、あるいはカノンの歴史をひもとくならば、輪唱形式の単純カノンのみがカノンだというわけではないですし、輪唱形式のカノンが全てのカノンの原型であったというわけでもおそらくなかったでしょうし、輪唱形式のカノン自体も「こだま」の効果の音楽化としてその発生の根拠を捉えることはそれほど自明でないだろうと思います。
逆に「こだま」の効果を目指して書かれたホルストの最晩年のカノンみたいな特殊な例もありますが…。
以上、いろいろごちゃごちゃ書きましたが、最初に言ったように一聴の価値はあると思いますよ。なにしろ面白いディスクですから…。
このディスクの内容はかなり凄くて、「夏は来たりぬ」のカノンから、松平氏本人の自作曲まで、700年超に及ぶ全31曲を全て一人で演奏されています。そのチャレンジングな内容と、これだけのディスクを作り上げるのに要した手間ひまには本当に頭の下がる思いがします。演奏のクオリティーも非常に高く、一聴の価値ありだと思います。
そういうわけでまうかめ堂的大絶賛のディスクです、と言いたいところだったのですが、実際にそう言おうとすると、若干の齟齬の感覚が残ります。一体このひっかかる感じはなんなのだろう???、と、もやもやしているのですが、それをはっきり言語化しようとして、今これを書いています。
前述のように、中世からルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、近代、戦後の前衛音楽そして現在にいたるまできわめて広範なレパートリーが録音されていて、しかも終わりに置かれたマショーの「我が終わりは我が始まり」の逆行カノンにならって、曲順は古い作品から新しい作品へと順に進み、ちょうど真ん中に置かれた氏の最新の自作で折り返し、また古い作品へと進んで行くという凝ったつくりになっています。
しかもその選曲にはそのカノンという軸線を通し、さまざまな時代のさまざまなカノンが配されているという念の入れようです。
で、これは確かに面白い趣向であって、若いころの私だったらきっと喝采を送ったにちがいありません。しかし、どうもこれを手放しで絶賛できないのは、少々意地悪く聞こえるいい方をするなら、思い付きをやってみました以上の意図が見当たらないことにあります。
例えば、さまざまな時代のさまざまな音楽が雑然と並んでいるという印象が拭えません。唯一の軸線たるカノンについても、色んなものをとにかく集めてみました程度の極めて弱いつながりしか感じとれないのがとても残念に思います。せっかく魅力的なテーマを設定しているのだから、中世以来現在に至るまで、その表層的な装いを絶えず変化させながら営まれてきた、カノンという実践の精髄が聴こえてくるような作りになってると良かったのにな、なんてことを思ってしまいます。
また一人多重録音ということに関して、クラシック音楽に於ける録音が生演奏の代替物、あるいは記録という認識が未だ強いことに抗して、音素材への現代テクノロジーの積極的な介入によるサウンドクリエイティング(ポピュラー音楽では既に当り前のこと)への強い意志が自身の手による解説から窺うことができ、そのことにはとても共感を覚えるのですが、実際それがどれほどの水準で達せられているかというと、それほど高いところまで到達しているようには見えないことも残念に思う点です。
もちろん松平氏は声楽のエキスパートであり、それぞれの音素材の素晴らしさについては私がどうこう言えるものではないのですが、次のような感想を持ちます。
「夏は来たりぬ」の演奏がルネサンス音楽の部屋における布袋厚さんの演奏を本質的に越えているかというと、そうでは無いと思います。
13世紀のモテト Alle psallite cum luya の演奏が、この演奏が参照していると思われるマンロウの演奏より魅力的かというと、これもそうではありません。
15世紀イギリスのキャロル Lullay... がアノニマス4より美しいかというと、これもそうとは感じません。
つまり、折角一人多重録音という「茨の道」を果敢に進んでいるのに、そのことが真に効を奏している曲があまりに少ないと思うのです。
私が思うにこのやりかたがその威力を遺憾なく発揮している曲は、ケージの二曲と松平氏の自作曲の3曲だけのように思います。
惜しいのはリゲティの Lux aeterna ですね。これ、サンプリングでやったら面白かったんじゃないかと思います。実はこの曲、私が「初音ミク」に歌わせたいと思う曲の一つでした。
また、私の感覚ではこのディスクを、次のものたちよりも低く評価せざるをえません。
グレン・グールドのいくつかのディスク
富田勲の最良の作品
マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」
ブーレーズの「春の祭典」の最初の録音(自身の分析論文を「鳴らす」ために実演ではありえないバランスのミキシングがされている箇所があります)
スティングによる Dowland: Can you excuse my wrongs
というわけで齟齬の感覚についての結論が出ました。
つまり、試みは素晴らしいが、それが必ずしも十全に生きているわけではない、です。
さて、音楽それ自体についての感想は大体以上ですが、松平氏自身の手による解説でいくつか気になる点がありますので少し書きたいと思います。
まず「夏は来たりぬ」のカノンの成立年代が「1240年頃」とされていますが、これは誤りで、「1280から1310年ごろ」というのがきちんとした実証研究による現在の結論であるようです。ただ、イギリス人研究者は現在でもあれこれ理由をつけて「1240年頃」説を固持しようとするそうなので、この場合に限っては彼らの言うことを信ずるべきではないでしょう。
また「カノンとは、自然界にありふれた「こだま」の効果を音楽化したものだ」とありますが、これはいかがなものかと…。
なんというか、それは、例えば「太古の人類が感きわまって叫び声を上げたとき、音楽が誕生した」なんていうのと同程度の深さの意味しか持ちえない命題に聞こえます。
これに対してはいろいろなことが言えますが、まずカノンの原義にもどるなら、あるいはカノンの歴史をひもとくならば、輪唱形式の単純カノンのみがカノンだというわけではないですし、輪唱形式のカノンが全てのカノンの原型であったというわけでもおそらくなかったでしょうし、輪唱形式のカノン自体も「こだま」の効果の音楽化としてその発生の根拠を捉えることはそれほど自明でないだろうと思います。
逆に「こだま」の効果を目指して書かれたホルストの最晩年のカノンみたいな特殊な例もありますが…。
以上、いろいろごちゃごちゃ書きましたが、最初に言ったように一聴の価値はあると思いますよ。なにしろ面白いディスクですから…。
2010年01月01日
新年明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします。
本家もブログもなかなか更新できておりませんが、今年もこのくらいの頻度になるかもしれません。半年に一度くらい来ていただくと何か変化があるかもしれません(^^;).
さて今年の新年の MIDI は思うところあってファエンツァ写本の曲です。 De tout flors というマショーのバラードの器楽編曲です。
で、マショーの原曲は次です。
比べて聴くだけだとよくわからないと思うので、原曲の Cantus-Tenor と Faenza 版を合わせた「ハイブリッド版」を作りました。
実はこの「ハイブリッド版」が今回やりたかったことです。つまり、ファエンツァ写本の編曲のすごさをなんとか可視化したかったわけですね。
この「ハイブリッド版」という発想は、Mala Punica のファエンツァ写本の宗教曲のディスク Faventina に inspire されました。
その Mala Punica の演奏が、Youtube で見られます。
Faventina
本家もブログもなかなか更新できておりませんが、今年もこのくらいの頻度になるかもしれません。半年に一度くらい来ていただくと何か変化があるかもしれません(^^;).
さて今年の新年の MIDI は思うところあってファエンツァ写本の曲です。 De tout flors というマショーのバラードの器楽編曲です。
- De tout flors (Codex Faenza)
- mp3: [mp3, 4.0M]
- MIDI: [GM], [SC-88]
- mp3: [mp3, 4.0M]
で、マショーの原曲は次です。
- De toutes flours (ballade)
- mp3: [mp3, 1.6M]
- MIDI: [GM], [SC-88]
- mp3: [mp3, 1.6M]
比べて聴くだけだとよくわからないと思うので、原曲の Cantus-Tenor と Faenza 版を合わせた「ハイブリッド版」を作りました。
- De toutes flours (hybrid version)
- mp3: [mp3, 3.4M]
- MIDI: [GM], [SC-88]
- mp3: [mp3, 3.4M]
実はこの「ハイブリッド版」が今回やりたかったことです。つまり、ファエンツァ写本の編曲のすごさをなんとか可視化したかったわけですね。
この「ハイブリッド版」という発想は、Mala Punica のファエンツァ写本の宗教曲のディスク Faventina に inspire されました。
その Mala Punica の演奏が、Youtube で見られます。
Faventina
2009年05月31日
シャンティー写本
アルス・スブティリオールのレパートリーの記された代表的な写本といえばシャンティー写本(Chantilly, Musee Conde, MS 564)ですが、ついに去年の秋にそのファクシミリが出版されました。
Codex Chantilly Manuscript 564: Bibliotheque Du Chateau De Chantilly (Epitome Musical), Brepols Pub (2008/9/15)
ISBN-10: 2503523498
ISBN-13: 978-2503523491
で、ついに「まうかめ堂」もそのファクシミリを入手しました!!(パチパチ)
これで「まうかめ堂」はある意味「無敵になる」というか、やりたい放題ですね。勢いあまって3曲立て続けに MIDI を作ってしまいました。
今後数年間はこの写本にかかりきりになるかもしれません。
(ファクシミリはなかなかに高価なのであまり自腹で購入することはお勧めできません。いずれネットで誰もが見られる時代が来るだろう…来るといいなぁ…と思います。)
Codex Chantilly Manuscript 564: Bibliotheque Du Chateau De Chantilly (Epitome Musical), Brepols Pub (2008/9/15)
ISBN-10: 2503523498
ISBN-13: 978-2503523491
で、ついに「まうかめ堂」もそのファクシミリを入手しました!!(パチパチ)
これで「まうかめ堂」はある意味「無敵になる」というか、やりたい放題ですね。勢いあまって3曲立て続けに MIDI を作ってしまいました。
今後数年間はこの写本にかかりきりになるかもしれません。
(ファクシミリはなかなかに高価なのであまり自腹で購入することはお勧めできません。いずれネットで誰もが見られる時代が来るだろう…来るといいなぁ…と思います。)
2009年01月01日
新年明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします。

このところなかなか更新ができておりませんが、今年もゆるゆるやって参りたいと思います。
サイトの内容の方もだいぶやり散らかしている部分があるのでその辺はある程度整理していきたいとおもいます。
さて、今年の新年のMIDIはわけあってダウランドです。
数年前にスティングがエディン・カラマーゾフというリュート奏者とダウランドの歌曲集のCDを出したということがあって、当時 BBC Radio 3 でその演奏を聞いたのですが、そのときは見るべきものは無いと思いました。
で、昨年末にかれらが来日公演をするというのでそのCDがボーナストラック付きで再発されていて、それをタワレコで試聴して、私は評価を一変させることとなりました。
それがこの曲の演奏でした。
(来日公演の方はさんざんな評判だったみたいですが。)
エディン・カラマーゾフが凄いですね。この人、きっと古楽の世界ではあまり評価されないのでしょうが、タダモノではないです。マンロウ以来の鬼才というと褒めすぎですが、メメルスドルフ以来の鬼才というとちょうどよいかもしれません。

このところなかなか更新ができておりませんが、今年もゆるゆるやって参りたいと思います。
サイトの内容の方もだいぶやり散らかしている部分があるのでその辺はある程度整理していきたいとおもいます。
さて、今年の新年のMIDIはわけあってダウランドです。
- John Dowland: Can she excuse my wrongs
- mp3: [mp3,1.6M]
- MIDI: [GM], [SC88]
数年前にスティングがエディン・カラマーゾフというリュート奏者とダウランドの歌曲集のCDを出したということがあって、当時 BBC Radio 3 でその演奏を聞いたのですが、そのときは見るべきものは無いと思いました。
で、昨年末にかれらが来日公演をするというのでそのCDがボーナストラック付きで再発されていて、それをタワレコで試聴して、私は評価を一変させることとなりました。
それがこの曲の演奏でした。
(来日公演の方はさんざんな評判だったみたいですが。)
エディン・カラマーゾフが凄いですね。この人、きっと古楽の世界ではあまり評価されないのでしょうが、タダモノではないです。マンロウ以来の鬼才というと褒めすぎですが、メメルスドルフ以来の鬼才というとちょうどよいかもしれません。
2008年07月26日
フランコにおけるハビトゥス
上の記事のタイトルだけ見ると中世哲学に関する論文の題名かなにかにきこえますが、「まうかめ堂」で翻訳をしているケルンのフランコ著『計量音楽論』についての話です。
この『計量音楽論』には二箇所ほど中世哲学のタームを用いた記述が出てきます。
一つは「ある類において、ある特定の種と種差があたえられると別の種が定立される」というアリストテレス哲学の基本(?)が出てくるところで、この箇所はそれほど悩まないで良いものでした。(ただ訳がどうにも…。)
しかし、もう一つの箇所には habitus, privatio というスコラ哲学に独特なジャルゴンが登場し、本筋には直接関係していないにしても、仮にも訳文を作るとなると、ちょっと悩ましい部分でした。
それは次の一文です。
Sed cum prius sit vox recta quam amissa, quoniam habitus praecedit privationem,
素直に意味をとると、「無音(vox amissa)よりも真正の音(vox recta)の方が第一のものである。なぜなら habitus は privatio に先行するから。」となります。
privatio というのは「欠如」という意味で、文の前半の無音と対応していて、この意味で間違いなさそうです。
一方、habitus は辞書を見ると、その意味は「態度、外観、服装、様子、状態、習慣、性質…」で、???となってしまいます。(英語の habit=習慣はここから来てるみたいですね。)
文脈からは、habitus は「欠如」の反対、すなわち「存在」あるいは「有ること」を言っていると推測でき、また他の人(専門家)の訳を見てもそのように訳されているので、きっとそれで良いのでしょう。とはいうものの、やはりしっくりこないものは残ります。
ただここでの habitus は中世哲学のテクニカル・タームであって、おそらく通常の意味とずれるものであることも想像されるわけで、多少調べてみるなりしてもいいのかなとも少しだけ思いましたが、ここでスコラ哲学に深入りするなんてことはさすがに無理なので、もやもやしたものを残しつつそのままにしていました。
で、最近、ある本を読みました。山内志朗著「天使の記号学」(岩波書店)です。そしたら「ハビトゥス」についてだいぶページを割いて論じられていて、だんだんこの語の内実がわかってきました。
ここでその議論の不用意な要約はすべきではないでしょうが、また詳しくはその本を読んでいただくのが良いでしょうが、すこしだけ私の理解をまとめておくことにします。
まず一つのパラグラフを引用します。
なるほど、ハビトゥスは「自己を保持すること」から来ているわけですね。上の文では「おのれを持つこと→状態にあること」という形で→で結ばれているけれども、より根源的には「自己を保持すること→有ること」だと理解できそうです。
また、この本の別の箇所では、こちらはハビトゥスとは直接関係ないけれども、「存在の三項図式」というのが登場します。
それは、ラテン語の動詞から本質を抽出されたような概念については次のような「三項図式」で理解すると出発点として理解しやすいというものです。
たとえば、生命(vita) - 生きること(vivere) - 生物(vivens)、光(lux) - 光ること(lucere) - 光るもの(lucens)、等が三項図式の例で、著者は存在、本質、普遍を論ずる手がかりとして「存在の三項図式」、本質(essentia) - 存在(esse) - 存在者(ens)を導入しています。
さて、「存在の三項図式」の方については、本の方を参照していただくことにして、ハビトゥスです。この本にはそう書かれているわけではないけど、ハビトゥスを三項図式で書くとその意味がはっきりしてくる気がします。
すなわち habitus - se habere - habens.
つまり habitus とは、「自己を保持すること se habere 」の本質、「自己を保持すること」性であると理解できます。
この本の前半部分を参照するなら、habitus に「己有性」なんて訳語をあててもいいかもしれません(笑)。
わたしとしては、これで、「態度云々」といった通常の意味からだいぶ理解が進んだ感じがします。
でも、まだ疑問はのこります。たとえば、本文にあるように habitus は privatio に「先行するもの」なのかとか、フランコはどの程度同時代の哲学者とハビトゥスについての理解を共有していたのかというような疑問です。
でもここから先は邪推のようなものになりそうなので、ここでやめることにしましょう。
この『計量音楽論』には二箇所ほど中世哲学のタームを用いた記述が出てきます。
一つは「ある類において、ある特定の種と種差があたえられると別の種が定立される」というアリストテレス哲学の基本(?)が出てくるところで、この箇所はそれほど悩まないで良いものでした。(ただ訳がどうにも…。)
しかし、もう一つの箇所には habitus, privatio というスコラ哲学に独特なジャルゴンが登場し、本筋には直接関係していないにしても、仮にも訳文を作るとなると、ちょっと悩ましい部分でした。
それは次の一文です。
Sed cum prius sit vox recta quam amissa, quoniam habitus praecedit privationem,
素直に意味をとると、「無音(vox amissa)よりも真正の音(vox recta)の方が第一のものである。なぜなら habitus は privatio に先行するから。」となります。
privatio というのは「欠如」という意味で、文の前半の無音と対応していて、この意味で間違いなさそうです。
一方、habitus は辞書を見ると、その意味は「態度、外観、服装、様子、状態、習慣、性質…」で、???となってしまいます。(英語の habit=習慣はここから来てるみたいですね。)
文脈からは、habitus は「欠如」の反対、すなわち「存在」あるいは「有ること」を言っていると推測でき、また他の人(専門家)の訳を見てもそのように訳されているので、きっとそれで良いのでしょう。とはいうものの、やはりしっくりこないものは残ります。
ただここでの habitus は中世哲学のテクニカル・タームであって、おそらく通常の意味とずれるものであることも想像されるわけで、多少調べてみるなりしてもいいのかなとも少しだけ思いましたが、ここでスコラ哲学に深入りするなんてことはさすがに無理なので、もやもやしたものを残しつつそのままにしていました。
で、最近、ある本を読みました。山内志朗著「天使の記号学」(岩波書店)です。そしたら「ハビトゥス」についてだいぶページを割いて論じられていて、だんだんこの語の内実がわかってきました。
ここでその議論の不用意な要約はすべきではないでしょうが、また詳しくはその本を読んでいただくのが良いでしょうが、すこしだけ私の理解をまとめておくことにします。
まず一つのパラグラフを引用します。
ハビトゥスには、<態度、行状、衣服、装い>等の意味もある。これらがハビトゥスと言われるのは、所有されるものからだ。つまり、habere (所有する・持つ)の受動的結果として考えられているのだ。とはいっても、トマス・アクィナスによれば、このようなハビトゥスは本来のハビトゥスではない。ハビトゥスとは、「持つ」ことの受動的結果、所有されるものではなく、ラテン語で言えば、"se habere" つまり「おのれを持つこと→状態にあること」から生じるものだからだ。
なるほど、ハビトゥスは「自己を保持すること」から来ているわけですね。上の文では「おのれを持つこと→状態にあること」という形で→で結ばれているけれども、より根源的には「自己を保持すること→有ること」だと理解できそうです。
また、この本の別の箇所では、こちらはハビトゥスとは直接関係ないけれども、「存在の三項図式」というのが登場します。
それは、ラテン語の動詞から本質を抽出されたような概念については次のような「三項図式」で理解すると出発点として理解しやすいというものです。
たとえば、生命(vita) - 生きること(vivere) - 生物(vivens)、光(lux) - 光ること(lucere) - 光るもの(lucens)、等が三項図式の例で、著者は存在、本質、普遍を論ずる手がかりとして「存在の三項図式」、本質(essentia) - 存在(esse) - 存在者(ens)を導入しています。
さて、「存在の三項図式」の方については、本の方を参照していただくことにして、ハビトゥスです。この本にはそう書かれているわけではないけど、ハビトゥスを三項図式で書くとその意味がはっきりしてくる気がします。
すなわち habitus - se habere - habens.
つまり habitus とは、「自己を保持すること se habere 」の本質、「自己を保持すること」性であると理解できます。
この本の前半部分を参照するなら、habitus に「己有性」なんて訳語をあててもいいかもしれません(笑)。
わたしとしては、これで、「態度云々」といった通常の意味からだいぶ理解が進んだ感じがします。
でも、まだ疑問はのこります。たとえば、本文にあるように habitus は privatio に「先行するもの」なのかとか、フランコはどの程度同時代の哲学者とハビトゥスについての理解を共有していたのかというような疑問です。
でもここから先は邪推のようなものになりそうなので、ここでやめることにしましょう。