2009年05月31日

シャンティー写本

アルス・スブティリオールのレパートリーの記された代表的な写本といえばシャンティー写本(Chantilly, Musee Conde, MS 564)ですが、ついに去年の秋にそのファクシミリが出版されました。

Codex Chantilly Manuscript 564: Bibliotheque Du Chateau De Chantilly (Epitome Musical), Brepols Pub (2008/9/15)
ISBN-10: 2503523498
ISBN-13: 978-2503523491

で、ついに「まうかめ堂」もそのファクシミリを入手しました!!(パチパチ)

これで「まうかめ堂」はある意味「無敵になる」というか、やりたい放題ですね。勢いあまって3曲立て続けに MIDI を作ってしまいました。

今後数年間はこの写本にかかりきりになるかもしれません。

(ファクシミリはなかなかに高価なのであまり自腹で購入することはお勧めできません。いずれネットで誰もが見られる時代が来るだろう…来るといいなぁ…と思います。)
posted by まうかめ堂 at 18:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 中世音楽

2009年01月01日

新年明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いいたします。
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このところなかなか更新ができておりませんが、今年もゆるゆるやって参りたいと思います。

サイトの内容の方もだいぶやり散らかしている部分があるのでその辺はある程度整理していきたいとおもいます。

さて、今年の新年のMIDIはわけあってダウランドです。

数年前にスティングがエディン・カラマーゾフというリュート奏者とダウランドの歌曲集のCDを出したということがあって、当時 BBC Radio 3 でその演奏を聞いたのですが、そのときは見るべきものは無いと思いました。

で、昨年末にかれらが来日公演をするというのでそのCDがボーナストラック付きで再発されていて、それをタワレコで試聴して、私は評価を一変させることとなりました。

それがこの曲の演奏でした。
(来日公演の方はさんざんな評判だったみたいですが。)

エディン・カラマーゾフが凄いですね。この人、きっと古楽の世界ではあまり評価されないのでしょうが、タダモノではないです。マンロウ以来の鬼才というと褒めすぎですが、メメルスドルフ以来の鬼才というとちょうどよいかもしれません。
posted by まうかめ堂 at 16:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 「まうかめ堂」の日記

2008年07月26日

フランコにおけるハビトゥス

上の記事のタイトルだけ見ると中世哲学に関する論文の題名かなにかにきこえますが、「まうかめ堂」で翻訳をしているケルンのフランコ著『計量音楽論』についての話です。

この『計量音楽論』には二箇所ほど中世哲学のタームを用いた記述が出てきます。

一つは「ある類において、ある特定の種と種差があたえられると別の種が定立される」というアリストテレス哲学の基本(?)が出てくるところで、この箇所はそれほど悩まないで良いものでした。(ただ訳がどうにも…。)

しかし、もう一つの箇所には habitus, privatio というスコラ哲学に独特なジャルゴンが登場し、本筋には直接関係していないにしても、仮にも訳文を作るとなると、ちょっと悩ましい部分でした。

それは次の一文です。

Sed cum prius sit vox recta quam amissa, quoniam habitus praecedit privationem,

素直に意味をとると、「無音(vox amissa)よりも真正の音(vox recta)の方が第一のものである。なぜなら habitus は privatio に先行するから。」となります。

privatio というのは「欠如」という意味で、文の前半の無音と対応していて、この意味で間違いなさそうです。

一方、habitus は辞書を見ると、その意味は「態度、外観、服装、様子、状態、習慣、性質…」で、???となってしまいます。(英語の habit=習慣はここから来てるみたいですね。)

文脈からは、habitus は「欠如」の反対、すなわち「存在」あるいは「有ること」を言っていると推測でき、また他の人(専門家)の訳を見てもそのように訳されているので、きっとそれで良いのでしょう。とはいうものの、やはりしっくりこないものは残ります。

ただここでの habitus は中世哲学のテクニカル・タームであって、おそらく通常の意味とずれるものであることも想像されるわけで、多少調べてみるなりしてもいいのかなとも少しだけ思いましたが、ここでスコラ哲学に深入りするなんてことはさすがに無理なので、もやもやしたものを残しつつそのままにしていました。

で、最近、ある本を読みました。山内志朗著「天使の記号学」(岩波書店)です。そしたら「ハビトゥス」についてだいぶページを割いて論じられていて、だんだんこの語の内実がわかってきました。

ここでその議論の不用意な要約はすべきではないでしょうが、また詳しくはその本を読んでいただくのが良いでしょうが、すこしだけ私の理解をまとめておくことにします。

まず一つのパラグラフを引用します。

ハビトゥスには、<態度、行状、衣服、装い>等の意味もある。これらがハビトゥスと言われるのは、所有されるものからだ。つまり、habere (所有する・持つ)の受動的結果として考えられているのだ。とはいっても、トマス・アクィナスによれば、このようなハビトゥスは本来のハビトゥスではない。ハビトゥスとは、「持つ」ことの受動的結果、所有されるものではなく、ラテン語で言えば、"se habere" つまり「おのれを持つこと→状態にあること」から生じるものだからだ。


なるほど、ハビトゥスは「自己を保持すること」から来ているわけですね。上の文では「おのれを持つこと→状態にあること」という形で→で結ばれているけれども、より根源的には「自己を保持すること→有ること」だと理解できそうです。

また、この本の別の箇所では、こちらはハビトゥスとは直接関係ないけれども、「存在の三項図式」というのが登場します。

それは、ラテン語の動詞から本質を抽出されたような概念については次のような「三項図式」で理解すると出発点として理解しやすいというものです。

たとえば、生命(vita) - 生きること(vivere) - 生物(vivens)、光(lux) - 光ること(lucere) - 光るもの(lucens)、等が三項図式の例で、著者は存在、本質、普遍を論ずる手がかりとして「存在の三項図式」、本質(essentia) - 存在(esse) - 存在者(ens)を導入しています。

さて、「存在の三項図式」の方については、本の方を参照していただくことにして、ハビトゥスです。この本にはそう書かれているわけではないけど、ハビトゥスを三項図式で書くとその意味がはっきりしてくる気がします。

すなわち habitus - se habere - habens.

つまり habitus とは、「自己を保持すること se habere 」の本質、「自己を保持すること」性であると理解できます。

この本の前半部分を参照するなら、habitus に「己有性」なんて訳語をあててもいいかもしれません(笑)。

わたしとしては、これで、「態度云々」といった通常の意味からだいぶ理解が進んだ感じがします。

でも、まだ疑問はのこります。たとえば、本文にあるように habitus は privatio に「先行するもの」なのかとか、フランコはどの程度同時代の哲学者とハビトゥスについての理解を共有していたのかというような疑問です。

でもここから先は邪推のようなものになりそうなので、ここでやめることにしましょう。
posted by まうかめ堂 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世音楽

2008年05月25日

Oldfield & Zappa

数日前、渋谷のタワレコに行ったときに掘り出し物を二点見付けました.

一つめはマイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズの Part 1 をピアノ二台&シンセサイザー二台、あるいはピアノ4台でやったディスク。(しかも760円。)
もう一つは Ensemble Modern plays Frank Zappa というディスクです。(セール中990円。)

まず一枚目。マイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズと言ってわかる人がどれくらいいるかわかりませんが、映画「エクソシスト」でさわりが使われているので聴けば「あ、あの曲か」とわかる人が多いかもしれません。
この曲はいろんな意味で特異な曲で、その先鋭性からプログレに分類されることが多いようですが、長大な二部構成の曲(それぞれの部分が20分超、つまりLPの両面で一曲と考えた方が良い曲)で、しかも一説によると2300回を越える多重録音でレコーディングされており、数十種類におよぶ楽器の大半をマイク・オールドフィールド一人で演奏しているというものです。

またマイク・オールドフィールドはヴァージンレコードの第一号アーティストであり、19才のときに一年余りを費し完成させたこのLPがいきなり全英一位になり現在までに全世界で1700万枚以上売れているという怪物的なレコードでした。

それで、このピアノ版、まうかめ堂的にはかなりのヒットです。まず、よりによってチューブラー・ベルズをピアノでやろうという発想が秀逸です。そして演奏それ自体もマイク・オールドフィールドのファンを十二分に納得させられる高い水準の出来栄えになっています。そう、プログレに限らずロックの曲なんかをクラッシック系の演奏者がなかばその人の偏愛から取り上げてるような演奏は、しばしば大きく外すことがあるのですが、これはまったくそうでないですね。原曲の本質をしっかり捉えた上で表現手段を変えることで作品を違った角度から照らし出すものになっています。しかも渋谷のタワレコで760円。というわけで非常に良い買いものをしました。

二枚目のザッパもまうかめ堂的には大ヒットなディスクですね。「現代音楽」の演奏家がフランク・ザッパを演奏したディスクというと、Boulez conducts Frank Zappa というディスクを思い出しますが、あれはケッタイなディスクでした。ザッパの奇妙な小規模アンサンブル向け「現代曲」をブーレーズが手兵のアンサンブル・アンテルコンタンポランに演奏させてるCDで、ザッパはストラビやヴァレーズの崇拝者だというだけあって「フツーの現代音楽」を書いても面白いことは面白いんだけど何曲も聴かされるとちょっと…というかんじのものでした。

一方こちらは、ザッパのよりメジャーな曲をクラッシックの小規模アンサンブル向けにアレンジしたもので、アレンジが非常に素晴らしく全然違和感がないばかりか、むしろこの表現形態こそ正解なんじゃないかと思えてくるほどです。(違和感の無い理由の一つは、曲によってはエレキベースをよく効かせていることかもしれません。)
しかし、改めてザッパの発散しきってる才能には驚嘆させられますね。まさに hyper creative とでも言うべきでしょうか。20世紀末にもこれほどまでにヴァイタルな才能が出現しえたということは、21世紀にとっても一つに希望かもしれません。
posted by まうかめ堂 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世以外の音楽

2008年02月03日

リヒテルのウェーベルン

数日前タワレコに行きました。クロード・エルフェの「夜のガスパール」のディスクはないかと思って行ったのですが、エルフェは見当たらず、で、かわりにポゴレリチを買って帰ったのですが、そこでリヒテルの少しあやしげなライブ録音のディスクを発見。

リヒテルの20世紀ピアノ曲の二枚組です。

一枚目はプロコやストラビで、まあ、その曲の並びは想像しうる範囲内でしたが、二枚目にはなんとウェーベルンやシマノフスキが収録されています。

で、このディスク、試聴できるようになっていて、しかもタワレコの店員さんもわかってますね、二枚目が聴けるようになってました。

おそるおそるウェーベルンを聴いてみると…。

こんな演奏はアリなんだろうか、一言でいうと「濃い!」
こんなに「感情豊か」にたっぷりな演奏は聴いたことがないです。

ウェーベルンの作品には楽譜の最後に作曲者自身による演奏時間の目安が書かれていることが多いのですが、大抵それは目安になっていません。つまり、作曲者の指定したテンポで演奏するとそんなにはかからないだろうという時間が書かれています。

この曲も三楽章合わせて10分と書かれていますが、7分前後で終わってしまうのが普通でしょう。

ところが、リヒテルは本当に10分でやってました。

ロマン派の曲でもそこまでやったら今では大仰だと言われるような演奏をウェーベルンでやってます。こちらの想像の範囲を見事に越えてましたね。

一体これは何なんだろうと考えてみるに、後期ロマン派からシェーンベルクを経てその先にウェーベルンがいると思ってそちらの側から(セリーの側からでなく)やるとこうなるのかなとも思いました。

でも、やりすぎではないかと…。面白いけど。
posted by まうかめ堂 at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世以外の音楽

2008年02月02日

「夜のガスパール」

わけあってこのところラヴェルのピアノ曲をよく聴いています。
(ラヴェルのピアノ曲はスタンコお嬢さんがCDを沢山もっているのでごっそりと借りてきて聴いています。)

なんで突然ラヴェルのピアノ曲というと、メシアンの本を読むためで、もともとラヴェルにすごく興味があるというわけではなくて、むしろメシアンがラヴェルをどう読んでいたのかの方に興味があります。

とはいうものの、ラヴェル自体に関心がないわけではないです。ラヴェルのピアノ曲に関してはパッと見の甘さや官能性に目を奪われていると間違いで、また、ラヴェルはオーケストレイションの達人でもありオケ曲も傑作ぞろいですが、より自由に冒険できたのはむしろピアノ曲の方であっただろうという感じがしているので、その辺り一度きちんと見ておきたいというのがあって聴いています。

で、いきなりですが「夜のガスパール」です。(私の場合、最も singular なものから始める傾向が強いですね。)

スタンコお嬢さんから借りてきたCDを聴き、さらに楽譜を仕入れてきて見て一言「えらいことになってる…。」

技術的な難しさもさることながら(この曲の演奏を聴くというのは、オリンピックを見るようなものですね)、問題は内容的な難しさの方でしょう。

微妙なバランスで宙に浮かせながら物を運ぶようなというか、不安定な停留点に沿って進み続けなければならないというか、どの方向にもちょっとでも転ぶと壊れてしまうようなデリケートさがありますね。

しかもなかなか正体を見せてくれないというか、きらびやかなヴェールの中に本体がいるみたいに思ってヴェールをはがしてみるとそこには何もなくて、ではヴェールの方が本体だったのかと思うとやっぱり中に何かいるみたいに見える、不思議な曲です。

しかし、こんな難曲でもすごい演奏を聴かせてくれるピアニストの方々がいるもので、それらについて勝手ながらランキング形式で感想を述べたいと思います。

1.アルゲリッチ(’75)
これ以上の演奏はなかなか存在しにくいのではないかという演奏ですね。ものすごく精密で繊細なことを、驚くべき精度でやりきっている感じがします。つまり、本当に美しく繊細でありながら、その核においてはきっちり分析的に音楽をとらえていて、その仮想的音像を寸分違わず現実の音として実現してみせている感じがするのです。

特に始めの二曲「オンディーヌ」と「絞首台」は、1000分の1ミリの精度でものを作っているような緊張感があり、「スカルボ」では幾分解放に向かうのだけど、その瞬間にフッと女性的なところが見えてきて、それがまた魅力的に感じます。

2.マガロフ(’69)
きっとほとんど知られていない演奏ですね。ライブ録音です。
アルゲリッチとは対照的に、作りこんで作りこんでという風でなく、手持ちのレパートリーをその日その場の空気に乗ってなかば即興的にという感じなのですが、この迫力、圧巻です。まさに貫禄ですね。

3.ポゴレリチ(’83)
ものすごい enfant terrible、モーツァルトと同じで天使か悪魔かわからない(でも悪魔のほうがちょっと多めの)ような演奏です。すさまじいですね。別の宇宙の音楽を聴いているみたいです。この底知れなさはなんとも形容しがたいですね。

4.ギーゼキング(’37-'38)
録音の古さもあって、深い霧の中から聞こえてくるような「オンディーヌ」が幻想的です。また、このスピードとキレのよさは、生で聴けたらどんなにいいだろうなと思うような演奏です。

5.フランソワ(’67)
某レコ芸関係の本のランキングではアルゲリッチに次いで二位にランキングされてたりする演奏ですが、こんなに下になってしまいました。なんというか力でねじ伏せてる感があるんですね。「クープランの墓」はすごくいいんだけど、「夜のガスパール」は好みでないということになっています。

posted by まうかめ堂 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世以外の音楽

2008年01月27日

「春の祭典」からマショー、デュファイを参照するブーレーズ

ブーレーズと中世音楽について書き散らかすのも、今回で最後となる予定です。

今回は、超有名な「はるさい」の分析論文『ストラヴィンスキーは生きている』(これも「ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書」ピエール・ブーレーズ著、船山隆、笠羽映子訳所収)の一節についてです。

これはストラヴィンスキーの『春の祭典』の主にリズム構造に関する詳細な分析論文ですが、この論文には個人的な思い入れが非常に強いです。

ここは、私のブログなので、私が個人的な話をしても悪いことはないでしょう、ということで少し個人的な話をします。

多くの人は若いころに良い意味で世界観をひっくり返すような衝撃的なものに出会うものと思いますが、それが私の場合はストラビの『春の祭典』でした。

14歳のころ、とある6月の日曜日に、ほとんどジャケ買いをしたショルティのLP(そう、ぎりぎりLPです!)を聴いてあまりのショックにまさに茫然となったのがそもそものはじまりです。

それ以来世界が『春の祭典』を中心に回り始めるのですが、当時すごくもどかしかったのは、その強烈な思いを表現するための言語を全く持たなかったことです。

そういうもやもやした状態がその後何年も続きましたが、後に渋谷のYAMAHAでフルスコアを入手、これで事態は解決するかと思いきや、困難は深まるばかりでした。

すなわち、スコアには全てが書かれているはずなのに、実際手をのばせば音楽そのものに触れることさえできるのに、その音楽のもつ真の力を捕まえることができないという、さらなるもどかしさに直面したのです。

ほどなく船山隆著「ストラヴィンスキー」を読み、ブーレーズの論文のことを知ります。そしてその半年後ぐらいにようやくこの論文集を入手します。
書泉グランデで見付けたときに思わず「あった!」と叫んだ記憶があります。

で、その後しばらく、この本をまさにむさぼるように読みました。後にも先にもあんな読み方をしたことはないでしょうね。本当に若かったです。

そして、この「はるさい」の論文も期待に違わずすごく衝撃的でしたが、その話をしはじめると今回それだけで終わってしまいますのでそれはパス。

でも、一言だけいうなら、パッと見「野性」と形容しうる強烈な音響と強烈なリズムからなるこの曲の、厚い神秘のヴェールに覆われているかのようなヴァイタリティーでさえ、極めて整然とした、「理性的な」分析によって語りうるのだ、ということが最も衝撃的なことでした。しかもブーレーズは音楽自体から決してブレません。

さて、ようやく本題に入れます。
今回取り上げたいのは、この論考のまさに本論が終わったその後にかかれた「後記」の部分です。そこでは唐突に(というか最初に読んだときは本当に唐突に感じたということなのですが)、ド・ヴィトリ、マショー、デュファイの名とともにアイソリズム・モテトが言及されるのです。

まずはその導入部分から。
人々は、リズムに対するわれわれのかくも一方的な姿勢を非難したり、あるいはわれわれがリズムに与える過大な重要性に驚いたりするかもしれない。事実、われわれにとって語法の問題自体は、セリー技法の採用ーそれは次第に普及したーによって、以前よりもはるかに解決に近づいているように思われる。したがって本質的な課題は、一つの均衡を回復することである。あらゆる音楽研究分野のかたわらにあって、実際、リズムの浴している恩恵といえば、誰もが常識的な教則本の中に見いだせるようなきわめて簡略な観念でしかない。そこに見いだすべきなのは、単に教育的欠陥だけだろうか?いっそう正当に次のことが考えられる。すなわち、ルネッサンス末期以降、リズムは他の音楽構成要素と同等には考えられなくなり、直観や良い趣味に過分な分け前が与えられるようになったということである。

たしかに、いわゆるフツーのクラシック音楽を聴いてるだけだと、ルネサンス以前、とりわけ中世にリズムに関してあんなことが行われていたなんて知りえないですからね。
われわれ西欧の音楽において、リズムに対するもっとも理性的な姿勢を見いだそうとすれば、フィリップ・ド・ヴィトリ、ギョーム・ド・マショー、ギョーム・デュファイの名を引き合いにださなければならない。彼らのアイソリズム・モテトは、カデンツに含まれる様々なゼクエンツに対するリズム構造の構築的な価値を断固として証明するものである。現代の諸探求にとってこの時代のそれ以上にすぐれた先例が求められようか。音楽は、この時代においては、単に一つの芸術としてのみならず、同時に一つの学問として考えられていた。つまりそのことによって、あらゆる種類の安易な誤解は(少なからず安易なスコラ学は永続したにせよ)回避されていたのである。

ここでギョーム・ド・ヴァンのデュファイ作品集の序文からの引用が入った後に
したがって、現代の多くの聴き手にとって、また多くの作曲家にとってさえ考えられないように思われることが明らかとなる。つまり、それらのモテトのリズム構造は書く行為(エクリチュール)に先立って存在していたということである。そこに見られるのは、単に分離現象だけではなく、まさしく、17世紀以来西欧音楽の発展を通じてわれわれが守っているのとは正反対の方法である。

まさにセリー音楽において、例えば音高の組合せがあらかじめセリーによって決められているように、アイソリズム・モテトで最初に与えられ/与えるのは定旋律と各声部のリズム構造です。

この際の作曲の具体的プロセスは、定旋律によって陰に規定されている和声構造にしたがって各声部に音を配分していくような作業になることが容易に予想されます。

にもかかわらずマショー、デュファイのアイソリズム・モテトの獲得している自由さと自発性には聴くたびに驚かされます。その驚きは作品の構造についての理解が深まれば深まるほど、より大きくなっていく種類のものです。

さあ、ここで、上で引用を省略したギョーム・ド・ヴァンの言葉を引くのが良いかもしれません。
ギョーム・ド・ヴァンは、デュファイの作品集の序文で次のように述べている。「アイソリズム法は、十四世紀の音楽理想のもっとも洗練された表現であり、ごく少数の人々によってだけ洞察されることが出来、作曲家の技倆に関する至上の証明の基礎となっていた本質であった。…諸処の束縛が、リズム構造のもっとも微細な部分をもあらかじめ決定する一つのプランがもつ厳格な次元によって課せられていた。しかしそれらの束縛は、少しもこのカンブレ人の霊感に限界を与えはしなかった。というのも、彼のモテトは、アイソリズム・カノンが事実厳密に守られているにもかかわらず、自由で自発的な作品という印象を与えるからである。デュファイの作品を十四世紀の諸作全体(マショーの作品を除く)から区別しているのは、まさに旋律とリズム構造のあいだに成立している調和のとれた均衡である。」

今後は、いくつかのアイソリズム・モテトについて分析的なことをやってみることにしましょうか。
posted by まうかめ堂 at 22:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 中世音楽

2008年01月26日

ブーレーズはマショーをどう見ていたのか

吐き出せるときに吐き出しておきましょう、ということで、もう一つ二つ、ブーレーズと中世音楽関係のことを書き散らかします。

再び「ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書」(ピエール・ブーレーズ著、船山隆、笠羽映子訳)から、ある音楽事典のために書かれた文書の中から、「対位法」についての文章についてです。

これはまさに音楽事典の「対位法」の項目に書かれた対位法の解説ですが、ただの辞書的な解説に留まらない、きわめてブーレーズ的なものになっています。

その中で、それこそ中世から現代にいたる対位法の歴史が、簡潔にして高密度に記述されるのですが、その記述は極めてフランス人ぽいというか、読者に全く媚びないというか、「着いてこれるやつだけ着いてくれば…。こっちは必要十分に解説してるもんね」みたいなところがあって、私は結構好きです。

それで、この中で、「アルス・ノヴァ」、とりわけマショーについてブーレーズが非常に高く見てることに、驚かされます。
「アルス・ノーヴァ」はポリフォニーの変遷におけるもっとも輝かしい時期の一つである。きわめて急速な発展が生じたのは、定量記譜法のおかげである。この時期は、フィリップ・ド・ヴィトリのような大理論家の名や、あらゆる時代を通じてもっとも偉大な作曲家の一人、ギョーム・ド・マショーの名に結びつけられる。ここでわれわれが目撃するのは、リズムや旋律による各声部のきわめてはっきりした区別である。展開は、いっそう精緻な旋律と流動的なリズムによって、より変化に富んだ柔軟なものとなるが、このリズム的柔軟性は、今日なお一方ならずわれわれを驚かせる。他方「終止クラウズラ」の確立は、展開に対して一種の三和声的な基礎を保証する。人々は、声部間で模倣を行なういくつかの用法を見いだし始める。マショーの音楽は、まったく驚くべき複雑さや精緻さや精妙さを示している。マショーは、旋律対位法の領域においてもリズム対位法の領域においても同様に、完璧な技倆をわが物としたのである。彼の音楽はヨーロッパ音楽の発展のなかで一つの頂点を成している。

訳がところどころ変なのと、いまでも「終止クラウズラ」なんていい方するのかなというのはありますが、マショーに対する評価が異様に高いですね。
「あらゆる時代を通じてもっとも偉大な作曲家の一人、ギョーム・ド・マショー」であり、「彼の音楽はヨーロッパ音楽の発展のなかで一つの頂点を成している。」ですから。

これに比べるとその後のフランドル楽派や、16世紀末の対位法の「黄金時代」に関しては割とそっけなかったりします。

で、次に明確に重要視されているのは、大バッハです。
それ以降(モンテヴェルディ以降)の音楽は、対位法的な考え方と和声的な概念の交錯を目ざした。ヨーハン・セバスティアン・バッハについては次のようにいうことができる。すなわち、彼は17世紀以降の書法の発展すべてを見事にしかも効果的に要約している、と。まさしくバッハにおいては、二つの書法類型の間にきわめて緊密な結び付きが見いだされ、またその結びつきは、彼以後もはやそれほど容易に達成されないような一致を示している。現在でも学校の対位法は、とくに彼の作品から引かれた範例にしたがって教えられている。バッハはわれわれに「対位法大全」とも言えるものを残したが、そこには、人間の獲得し得る書法上の全知識が要約された形で見いだされる。この大全は、『フーガの技法』、『音楽の捧げもの』、(チェンバロのための)『ゴールドベルク変奏曲』および(オルガンのための)『"高き天より”に基づく変奏曲』を含んでいる。これらの四つの作品には、模倣から厳格なカノンに至るまで、自由な対位法や厳格な対位法の諸形式がすべて見いだされる。


さらに興味深いことに、対位法の教育に関してこんなことも言っています。
しかし現代の対位法教育においては、より多くの考慮がバッハ以前の作曲家たちに与えられることが望ましい。大部分の教師たちにとっては、音楽が始まるのはまさしくバッハからということになっているのだ。ルネッサンスの側からおずおずとした侵入が行われはしたが、「オルガヌム」から古典派の時代に至る対位法の発展に誠実に基づいた教育は何もない。さらにテキストそのものを識ることも、それらの出版物が数少なかったり、高価であったりするために、ひじょうな制限を加えられている。

これは現在でも全く当てはまる指摘でしょう。
バッハが偉大であることは疑いようのないことです。「音楽の父」と呼ばれ、それ以前の全ての音楽はバッハに集約されており、それ以後の音楽の発展の全てがバッハに遡れるというものの見方は一つの観点として正しいでしょう。

バッハは西洋音楽においてもっとも高い山(の一つ)なわけですね。

しかしそれは一つ陥穽でもあります。すなわち、あまりに大きな山なのでその向こうが見えなくて、また、その山を登って越えることなど極めて困難なことです。

確かに、バッハには中世音楽のかすかな残響さえ聴くことができます。が、しかし、「集約」は「取捨選択」であり「選別」です。ある種のフィルタリングです。当然のことながらバッハに中世音楽そのものを聴くことなどできません。

バッハの向こう側に行くためには、一度「飛ぶ」必要がどうしてもあるようです。ヘリかなにかで山の向こうにポンと飛ぶ。

そうするとさらなる山々が連なっているのが見えるのですが、今飛び越えてきた高い山と同じくらい高い山に出会うことになります。

それがマショーです。

というか、マショーの高さを正当に見極められるかがどうかは、バッハを音楽の「始まり」とみなす類の立場、「バッハの重力圏」から抜け出ることが出来るかどうかにかかっていると言っても良いかもしれません。

(もう一つ「バッハの重力圏」から抜けだせるかどうかが問題になるのは20世紀音楽に向き合うときでしょう。)

ブーレーズの同じ文書の中にこんな一節があります。

たしかに、今や音楽の発展は、モノディーであり次いでポリフォニー(対位法から和声)であった二つの段階のあとで、第三の段階に入りつつあり、それは一種の「ポリフォニーのポリフォニー」であるように思われる。すなわち、もはや単なる堆積ではなく、音程の「配分」が要請されるのである。大ざっぱな表現だが、今や音楽には新たな次元が存在する、といえるだろう。このポリフォニックな観念は、いわゆるリズム語法の発展に助けられている。そしてたしかに、中世以来、あらゆる領域において、現在ほどの鋭さをもって問題提起がなされたことは未だかつてなかったように思われる。現代と「アルス・ノーヴァ」の間に正当な権利をもって存在し得るのは、以上のような比較だけだろう。

なかなか理解しにくい一文ですが、この文章は1960年ごろ書かれており、「ポリフォニーのポリフォニー」という「第三の段階」をセリーに託したブーレーズの夢はそれほど成功しなかったようにも今となっては見えます。

しかし、ブーレーズが当時一体何を夢見ていたのか、そしてそれとの関連においてアルス・ノヴァの中に何を見ていたのかは非常に興味のあるところです。

そういうわけで、私がマショーの MIDI を作るのは、ブーレーズを理解するためだと言ってもよいでしょう。


posted by まうかめ堂 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世音楽

2008年01月21日

20世紀のアルス・ノヴァ

わけあって、「ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書」(ピエール・ブーレーズ著、船山隆、笠羽映子訳)所収の Eventuellement… という原題の論考を十数年ぶりに読みました。(この題を「偶々…」と訳すのは明らかに誤訳でしょう。)

で、もちろん昔読んだときには全くそんな風に思いませんでしたが、これって「20世紀のアルス・ノヴァ」なんじゃないかという風に強烈に感じました。

ここで言うアルス・ノヴァとは、フィリップ・ド・ヴィトリの同名の論文のことを指しています。すなわち、それまでの「古い技法」に対して、計量記譜法(これは即その方法による作品の音楽構造を規定しています)に関してのイノヴェーション(二分割リズムを認めることと、ミニマの導入)を提案・提出した、かの有名な論文のことで、それがそのままその時代・様式の音楽に転用されたおおもとのことです。

で、ブーレーズの Eventuellement… は、まさにそのころその技法による傑作(「ル・マルトー」)を完成させつつあった、セリーの技法に関する非常に具体的な論考です。
私にはこれが、20世紀音楽におけるセリーの技法についてのアルス・ノヴァに見えるのです。

自分の作った曲にすら自分の名前を記さなかったほど慎ましやかだったヴィトリと比べれば、「激怒する職人たち」(ルネ・シャール)を地でいくような若きの日のブーレーズはアグレッシブです。
つまり十二音音楽語法の必要性を感じたことのない(中略)音楽家は、すべて「無用」である。

なんてことまで言ってます。(有名な一節ですが。)

でも、内容的にはさして戦闘的というものでもなくて、19世紀末ぐらいまでの伝統的(因襲的)音楽を、新ウィーン楽派らの資産を元手に、どのように超克していくかが、具体的な方法論とともに示されています。

読むほどにアルス・ノヴァですね。

しかも面白いことに、ここにはマショーやデュファイへの言及があります。
たしかにリズムをセリー構造に組み入れる必要がある。どのようにしてそれを成し遂げるのか?
逆説的にいえば、その出発点となるのは、ポリフォニーをリズムから引き離すことであろう。保証を必要とするなら、マショーやデュファイのアイソリズム・モテトを挙げればよい。つまり、われわれは、リズム構造にもセリー構造にもまったく対等な重要性を与えるのだ。この[リズムの]領域においても同様に、可能事の網状組織を創りだすこと、それがわれわれの目標である。

一つ前の記事で、20世紀音楽に言及したのには実はこういう背景があったんです。

というか、この一文は、私の関心が中世音楽に向かう遠因の一つだと言ってもよいものです。

十二音音楽、そしてセリー音楽へといたる道は、大体バッハの時代から19世紀終わりぐらいまでのいわゆるクラシック音楽に慣れ親しんだものにとってはなかなか理解しがたく、また現在学校で教えられているような「標準的な」音楽な規範からすると受け入れ難いものでありえます。

しかしながら、ヴァーグナー以降顕著だった半音階主義の中、調性は一度解体されねばならなかったということを前提とするならば、調性和声、あるいは機能和声に基づいた音楽の構成法を捨て去らなければならなかったことは必然であり、それにかわる新しい音楽の構成法、組織化の方法を探し求める必要があったこともまた必然でしょう。

そうしたときに、シェーンベルクはどの程度自覚していたかはわからないけど、ストラヴィンスキーは極めて直観的に、メシアンとブーレーズは音楽史全体を俯瞰的に見渡す観点からの論理的帰結として、それぞれに、そして常に implicit に中世音楽への参照がなされたということは、今では私には必然のように思えています。

ロマン主義の時代にあまりにも多くのものを背負わされてしまった音楽を解放し、音と人間とのより直接的な結びつきをとりもどすこと。
音楽は、その本質からいって、感情、態度、心理状態、自然現象など、いかなるものであっても何ものをも表現する力を持たない、と私は考える。未だかつて表現が音楽の内在的特性であったことはない…。(ストラヴィンスキー)

20世紀音楽、というか上に挙げた作曲家の音楽は、その前の世紀の音楽よりずっと、中世音楽、より正確には十二世紀以降の中世多声音楽に近いと感じています。

すなわち、神の声たる(グレゴリオ)聖歌に対する注釈としての音楽の時代、与えられた神の声=聖歌は既に書き留められ、シンボルとして、記号として操作の対象になっていて、数の学問の一分野たるムジカを修得したマギステルたちが行っていたことは、「宇宙の調和を見つけ出す」という認識の下で、調和=比例関係に基づく音の大伽藍を築き上げることにほかならなかった、そんな時代の音楽にです。

セリー音楽と、ブーレーズも言及しているアイソリズム・モテトに関して言えば、その発想法も、おそらくは作曲のプロセスも、かなり似通っていると言ってよいでしょう。
(結果として得られる音響はだいぶ異なるものになりますが…。
また、20世紀と中世の非常に大きな違いは、20世紀にはもう「神」がいなかったことでしょうか。)

西洋音楽の歴史全体を、ひとまとまりのもの考えたときに、(それは正当なものの見方でしょう。)非常に大きくわけて15世紀ごろから19世紀末までと、それ以外にわける見方がありうるだろうと、私は思っています。これは、音響の性質という観点から、三度を中心にした音の構成法が主流だった時代とそれ以外と言っても良いかもしれません。つまり、響きの性質ががらっと変化した時期がここ2000年ぐらいの間に二回あったということです。

前者は常に中心であり、後者は明らかに周縁です。

そして、多くの人は、(たとえ音楽のプロであっても、)「中心」の論理・観点から非常にしばしば「周縁」を裁いてしまっていることに何の疑念を持たないどころか、そういう事態が生じてしまっていることにすら気づいていないようにも見えます。

私はいまさらいわゆる「現代音楽」を解さない人から20世紀音楽を擁護しようなどという気はまったく起きませんが、中世音楽は、西洋音楽の礎として音楽の卵であると同時に、もはや多くの人々にとってその声をきちんと受け止めることの難しくなってしまった内なる他者です。

中世音楽は、多くの人々が「音楽とはこういうものだ」と認識しているその音楽の正統性を根底から覆す力を内に秘めています。

西洋音楽の歴史は、中世と20世紀を足場として一度脱構築されてよい、ということが一つ前の記事で言いかけたことでした。

ですが、今回も議論が性急に過ぎました。
posted by まうかめ堂 at 00:56| Comment(10) | TrackBack(0) | 中世以外の音楽

2008年01月20日

デュファイのアイソリズム・モテト

今年に入って立て続けにデュファイの MIDI を up してますが、今や私はデュファイのアイソリズム・モテトに夢中です。

実は、私はアイソリズム・モテトをまうかめ堂で取り上げるのを今までずっと避けてきました。なぜならば、アイソリズム・モテトは、ジャンルとして、あるいは技法として、中世音楽の精華というべきか、最終到達点というべきか、もっとも高度なポリフォニーであって、最後に来るべきものだと思っていたからです。

それで、ほとんど気まぐれにデュファイの二曲を作ってみたら、何かわかってしまいました。
今までまうかめ堂で MIDI なりなんなりを作ってきた本当の目的は、アイソリズム・モテトをきちんと理解することだったということを…。(いままで気づきませんでした。)

そしてその向こう側には20世紀音楽、とりわけセリー音楽をきちんと理解するという20年来の宿題が見えかくれしていて、いずれは、中世音楽と現代音楽をてこに「通常の」西洋音楽史における図と地を反転させるようなものの見方を形にしようとするかもしれません…が、これだけでは、何を言ってるのかわかりませんね。

まあ、それはさておき、デュファイです。
アイソリズム・モテトです。

デュファイのアイソリズム・モテトは、13世紀のモテトを胚とし、ド・ヴィトリ、マショー、チコーニア、ダンスタブル、と続く系譜の最後にくるものです。

デュファイは音楽の歴史としてみるならば、ルネサンスと呼ばれる時代の最初の作曲家であり、新しい時代を切り拓いたパイオニアであるわけですが、時代の移り変わりはもちろんある日を境に起こるわけではありません。つまり昨日まで中世で、今日からルネサンスだという特定の日付は存在しません。

デカルトの中にスコラ哲学が流れ込んでいてその養分の上に近代哲学が切り拓かれたように、デュファイの中には中世音楽の全てが流れ込んでいて、そこに深く根を下ろしています。

その大きな残響は、一方では彼の多くの世俗シャンソンに響いており、また一方では、アイソリズム・モテトにおいてより直接的に発現しています。

しかし、デュファイはその音楽家としての人生の半ば(1440年代前半)で、もはや時流にそぐわなくなったアイソリズム・モテトの作曲をやめてしまいます。

すなわち、デュファイこそが、中世音楽を完全に終わらせた墓堀人だということもできます。

これに関して、ウエルガス・アンサンブルのデュファイのアイソリズム・モテト集のCDによせられた、この団体のリーダーであるパウル・ファン・ネーヴェルの言葉が極めて的確にこれを表現しています。
1440年代、個人の表現、ポリフォニー的音響の感覚性(sensualite)、テクストの内容へのヒューマニスティックなアプローチがますます重要になってくる時代にあって、アイソリズム・モテトの厳密な数学的制約にもはや未来がないことはデュファイにとって明白なことだったにちがいない。この意味で、デュファイのアイソリズム・モテトは、マショー、ダンスタブル、チコーニアによって準備されたこの中世の多声音楽の概念の頂点をなすと同時に、若かりしデュファイが完全に同意していた形式概念の終焉をも表現している。彼のアイソリズム・モテトは、中世の凋落のある種の加速された音楽的なヴィジョンを形成している。(主に仏語訳からのまうかめ堂のテキトー訳)

しばらくアイソリズム・モテトとその周辺をうろつくことになると思います。
posted by まうかめ堂 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世音楽