2010年04月04日

Clavis, Clef そして Key

ト音記号やヘ音記号などの音部記号を英語では G-clef や F-clef など clef と言いました。また、調のことを英語で key と言ったりもします。この辺のことが、どうしてこういう風に言われるのか、あまり考えもしませんでしたが、ある本を読んでいて唐突にその起源がわかりました。

ある本とは次です。

Stefano Mengozzi, The Renaissance Reform of Medieval Music Theory: Guido of Arezzo between Myth and History, Cambridge University Press, 2010.

これは11世紀に Guido d'Arezzo によって開発されたという中世・ルネサンスにおけるソルミゼーションであるヘクサコルド hexachord (一言で言うとドレミの原型です)がその後の時代にどのように用いられていたのかを、特にそれまでに既にあった G-A-B-... という七音の音名の体系の用いられかたとの対比によって探っている本(のよう)です。(まだ、あんまり読んでません。)

なかなかヘクサコルドというのは、明解ではあるけれどもよくよく考えてみるとちょっと不思議な理論で、どうもしっくりこないところが残るので、まうかめ堂は中世音楽のサイトでありながら言及を避けてきたのですが、この本を読むともう少しすっきりしそうです。

で、本題の Clef や Key です。

上の本の中にこんな記述がありました。(以下、だいぶいい加減な訳による引用です。)

A-G の文字は claves ("keys") としても知られていた。なぜなら、それらは譜表の始めに置かれ、ピッチを紛れなく示すための "clefs" として用いられたからだ。(多くの中世の理論家たちが指摘しているように、鍵が錠を開けるのと同じ風に、それら(claves)は読む者に楽譜を開ける(unlock)ことを可能にするのである。(p.7)


えっ!そうだったの!という感じですが、これで表題の三つのもの Clavis, Clef そして Key がつながりました。

Clavis は正に鍵を意味するラテン語です。(複数形が Claves) また、それは、中世・ルネサンス期には上の音部記号という意味を超えて多様に用いられた音楽用語でもあります。

最初に書いたように Clef は音部記号の意味であり、かつその意味でしか用いられない英語のようですが、その大本は Clavis ということになりそうです。

そして Key. これがなぜ調を表すのか、いままで私には謎でしたが、なんというか「鍵」という意味を経由して英語に「調」の意味として入りこんだということになるわけですね。

なんというか clavis というラテン語の多義性によって英語の key の多義性が impose されるとでもいうべき状況でしょうか…。

上の引用に「多くの中世の理論家たちが指摘しているように」というのがありました。

気になったので TML で clavis で検索をかけてみたら、大量に引っかかってとても全部見きれませんでしたが、それっぽいものが一つ見付かりました。

13世紀の論文で、 Elias Salomo という人の Scientia artis musicae (「音楽技法の知識」)という文書の中にこんな一文がありました。
Quid est clavis in hac arte? Clavis est scientiam artis musicae aperiens artificialiter per septem litteras et sex punctos

この技法において clavis とは何か? Clavis
は7つの文字と六つの punctos を通じて音楽を開ける(aperire)技法の知識である。

この部分はいわゆる「グイドの手」を論じている章の一部で、上で sex punctos とあるのはおそらくヘクサコルドの六つの音名 ut-re-mi-fa-sol-la のことでしょうね。

音楽に対して aperire なんて語を使っているのは面白いですね。
posted by まうかめ堂 at 01:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 中世音楽

2010年03月26日

MONO-POLI

バリトン歌手の松平敬さんの一人多重録音アカペラCD、MONO-POLI を聴いてみましたので感想を書きたいと思います。

このディスクの内容はかなり凄くて、「夏は来たりぬ」のカノンから、松平氏本人の自作曲まで、700年超に及ぶ全31曲を全て一人で演奏されています。そのチャレンジングな内容と、これだけのディスクを作り上げるのに要した手間ひまには本当に頭の下がる思いがします。演奏のクオリティーも非常に高く、一聴の価値ありだと思います。

そういうわけでまうかめ堂的大絶賛のディスクです、と言いたいところだったのですが、実際にそう言おうとすると、若干の齟齬の感覚が残ります。一体このひっかかる感じはなんなのだろう???、と、もやもやしているのですが、それをはっきり言語化しようとして、今これを書いています。

前述のように、中世からルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、近代、戦後の前衛音楽そして現在にいたるまできわめて広範なレパートリーが録音されていて、しかも終わりに置かれたマショーの「我が終わりは我が始まり」の逆行カノンにならって、曲順は古い作品から新しい作品へと順に進み、ちょうど真ん中に置かれた氏の最新の自作で折り返し、また古い作品へと進んで行くという凝ったつくりになっています。
しかもその選曲にはそのカノンという軸線を通し、さまざまな時代のさまざまなカノンが配されているという念の入れようです。

で、これは確かに面白い趣向であって、若いころの私だったらきっと喝采を送ったにちがいありません。しかし、どうもこれを手放しで絶賛できないのは、少々意地悪く聞こえるいい方をするなら、思い付きをやってみました以上の意図が見当たらないことにあります。

例えば、さまざまな時代のさまざまな音楽が雑然と並んでいるという印象が拭えません。唯一の軸線たるカノンについても、色んなものをとにかく集めてみました程度の極めて弱いつながりしか感じとれないのがとても残念に思います。せっかく魅力的なテーマを設定しているのだから、中世以来現在に至るまで、その表層的な装いを絶えず変化させながら営まれてきた、カノンという実践の精髄が聴こえてくるような作りになってると良かったのにな、なんてことを思ってしまいます。

また一人多重録音ということに関して、クラシック音楽に於ける録音が生演奏の代替物、あるいは記録という認識が未だ強いことに抗して、音素材への現代テクノロジーの積極的な介入によるサウンドクリエイティング(ポピュラー音楽では既に当り前のこと)への強い意志が自身の手による解説から窺うことができ、そのことにはとても共感を覚えるのですが、実際それがどれほどの水準で達せられているかというと、それほど高いところまで到達しているようには見えないことも残念に思う点です。

もちろん松平氏は声楽のエキスパートであり、それぞれの音素材の素晴らしさについては私がどうこう言えるものではないのですが、次のような感想を持ちます。

「夏は来たりぬ」の演奏がルネサンス音楽の部屋における布袋厚さんの演奏を本質的に越えているかというと、そうでは無いと思います。

13世紀のモテト Alle psallite cum luya の演奏が、この演奏が参照していると思われるマンロウの演奏より魅力的かというと、これもそうではありません。

15世紀イギリスのキャロル Lullay... がアノニマス4より美しいかというと、これもそうとは感じません。

つまり、折角一人多重録音という「茨の道」を果敢に進んでいるのに、そのことが真に効を奏している曲があまりに少ないと思うのです。

私が思うにこのやりかたがその威力を遺憾なく発揮している曲は、ケージの二曲と松平氏の自作曲の3曲だけのように思います。

惜しいのはリゲティの Lux aeterna ですね。これ、サンプリングでやったら面白かったんじゃないかと思います。実はこの曲、私が「初音ミク」に歌わせたいと思う曲の一つでした。

また、私の感覚ではこのディスクを、次のものたちよりも低く評価せざるをえません。

グレン・グールドのいくつかのディスク
富田勲の最良の作品
マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」
ブーレーズの「春の祭典」の最初の録音(自身の分析論文を「鳴らす」ために実演ではありえないバランスのミキシングがされている箇所があります)
スティングによる Dowland: Can you excuse my wrongs

というわけで齟齬の感覚についての結論が出ました。
つまり、試みは素晴らしいが、それが必ずしも十全に生きているわけではない、です。

さて、音楽それ自体についての感想は大体以上ですが、松平氏自身の手による解説でいくつか気になる点がありますので少し書きたいと思います。

まず「夏は来たりぬ」のカノンの成立年代が「1240年頃」とされていますが、これは誤りで、「1280から1310年ごろ」というのがきちんとした実証研究による現在の結論であるようです。ただ、イギリス人研究者は現在でもあれこれ理由をつけて「1240年頃」説を固持しようとするそうなので、この場合に限っては彼らの言うことを信ずるべきではないでしょう。

また「カノンとは、自然界にありふれた「こだま」の効果を音楽化したものだ」とありますが、これはいかがなものかと…。
なんというか、それは、例えば「太古の人類が感きわまって叫び声を上げたとき、音楽が誕生した」なんていうのと同程度の深さの意味しか持ちえない命題に聞こえます。

これに対してはいろいろなことが言えますが、まずカノンの原義にもどるなら、あるいはカノンの歴史をひもとくならば、輪唱形式の単純カノンのみがカノンだというわけではないですし、輪唱形式のカノンが全てのカノンの原型であったというわけでもおそらくなかったでしょうし、輪唱形式のカノン自体も「こだま」の効果の音楽化としてその発生の根拠を捉えることはそれほど自明でないだろうと思います。

逆に「こだま」の効果を目指して書かれたホルストの最晩年のカノンみたいな特殊な例もありますが…。

以上、いろいろごちゃごちゃ書きましたが、最初に言ったように一聴の価値はあると思いますよ。なにしろ面白いディスクですから…。
posted by まうかめ堂 at 01:20| Comment(0) | TrackBack(1) | 中世音楽(CD)

2010年01月01日

新年明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします。

本家もブログもなかなか更新できておりませんが、今年もこのくらいの頻度になるかもしれません。半年に一度くらい来ていただくと何か変化があるかもしれません(^^;).

さて今年の新年の MIDI は思うところあってファエンツァ写本の曲です。 De tout flors というマショーのバラードの器楽編曲です。


で、マショーの原曲は次です。

比べて聴くだけだとよくわからないと思うので、原曲の Cantus-Tenor と Faenza 版を合わせた「ハイブリッド版」を作りました。

実はこの「ハイブリッド版」が今回やりたかったことです。つまり、ファエンツァ写本の編曲のすごさをなんとか可視化したかったわけですね。

この「ハイブリッド版」という発想は、Mala Punica のファエンツァ写本の宗教曲のディスク Faventina に inspire されました。

その Mala Punica の演奏が、Youtube で見られます。

Faventina
posted by まうかめ堂 at 20:54| Comment(4) | TrackBack(0) | 「まうかめ堂」の日記

2009年05月31日

シャンティー写本

アルス・スブティリオールのレパートリーの記された代表的な写本といえばシャンティー写本(Chantilly, Musee Conde, MS 564)ですが、ついに去年の秋にそのファクシミリが出版されました。

Codex Chantilly Manuscript 564: Bibliotheque Du Chateau De Chantilly (Epitome Musical), Brepols Pub (2008/9/15)
ISBN-10: 2503523498
ISBN-13: 978-2503523491

で、ついに「まうかめ堂」もそのファクシミリを入手しました!!(パチパチ)

これで「まうかめ堂」はある意味「無敵になる」というか、やりたい放題ですね。勢いあまって3曲立て続けに MIDI を作ってしまいました。

今後数年間はこの写本にかかりきりになるかもしれません。

(ファクシミリはなかなかに高価なのであまり自腹で購入することはお勧めできません。いずれネットで誰もが見られる時代が来るだろう…来るといいなぁ…と思います。)
posted by まうかめ堂 at 18:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 中世音楽

2009年01月01日

新年明けましておめでとうございます

今年もよろしくお願いいたします。
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このところなかなか更新ができておりませんが、今年もゆるゆるやって参りたいと思います。

サイトの内容の方もだいぶやり散らかしている部分があるのでその辺はある程度整理していきたいとおもいます。

さて、今年の新年のMIDIはわけあってダウランドです。

数年前にスティングがエディン・カラマーゾフというリュート奏者とダウランドの歌曲集のCDを出したということがあって、当時 BBC Radio 3 でその演奏を聞いたのですが、そのときは見るべきものは無いと思いました。

で、昨年末にかれらが来日公演をするというのでそのCDがボーナストラック付きで再発されていて、それをタワレコで試聴して、私は評価を一変させることとなりました。

それがこの曲の演奏でした。
(来日公演の方はさんざんな評判だったみたいですが。)

エディン・カラマーゾフが凄いですね。この人、きっと古楽の世界ではあまり評価されないのでしょうが、タダモノではないです。マンロウ以来の鬼才というと褒めすぎですが、メメルスドルフ以来の鬼才というとちょうどよいかもしれません。
posted by まうかめ堂 at 16:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 「まうかめ堂」の日記

2008年07月26日

フランコにおけるハビトゥス

上の記事のタイトルだけ見ると中世哲学に関する論文の題名かなにかにきこえますが、「まうかめ堂」で翻訳をしているケルンのフランコ著『計量音楽論』についての話です。

この『計量音楽論』には二箇所ほど中世哲学のタームを用いた記述が出てきます。

一つは「ある類において、ある特定の種と種差があたえられると別の種が定立される」というアリストテレス哲学の基本(?)が出てくるところで、この箇所はそれほど悩まないで良いものでした。(ただ訳がどうにも…。)

しかし、もう一つの箇所には habitus, privatio というスコラ哲学に独特なジャルゴンが登場し、本筋には直接関係していないにしても、仮にも訳文を作るとなると、ちょっと悩ましい部分でした。

それは次の一文です。

Sed cum prius sit vox recta quam amissa, quoniam habitus praecedit privationem,

素直に意味をとると、「無音(vox amissa)よりも真正の音(vox recta)の方が第一のものである。なぜなら habitus は privatio に先行するから。」となります。

privatio というのは「欠如」という意味で、文の前半の無音と対応していて、この意味で間違いなさそうです。

一方、habitus は辞書を見ると、その意味は「態度、外観、服装、様子、状態、習慣、性質…」で、???となってしまいます。(英語の habit=習慣はここから来てるみたいですね。)

文脈からは、habitus は「欠如」の反対、すなわち「存在」あるいは「有ること」を言っていると推測でき、また他の人(専門家)の訳を見てもそのように訳されているので、きっとそれで良いのでしょう。とはいうものの、やはりしっくりこないものは残ります。

ただここでの habitus は中世哲学のテクニカル・タームであって、おそらく通常の意味とずれるものであることも想像されるわけで、多少調べてみるなりしてもいいのかなとも少しだけ思いましたが、ここでスコラ哲学に深入りするなんてことはさすがに無理なので、もやもやしたものを残しつつそのままにしていました。

で、最近、ある本を読みました。山内志朗著「天使の記号学」(岩波書店)です。そしたら「ハビトゥス」についてだいぶページを割いて論じられていて、だんだんこの語の内実がわかってきました。

ここでその議論の不用意な要約はすべきではないでしょうが、また詳しくはその本を読んでいただくのが良いでしょうが、すこしだけ私の理解をまとめておくことにします。

まず一つのパラグラフを引用します。

ハビトゥスには、<態度、行状、衣服、装い>等の意味もある。これらがハビトゥスと言われるのは、所有されるものからだ。つまり、habere (所有する・持つ)の受動的結果として考えられているのだ。とはいっても、トマス・アクィナスによれば、このようなハビトゥスは本来のハビトゥスではない。ハビトゥスとは、「持つ」ことの受動的結果、所有されるものではなく、ラテン語で言えば、"se habere" つまり「おのれを持つこと→状態にあること」から生じるものだからだ。


なるほど、ハビトゥスは「自己を保持すること」から来ているわけですね。上の文では「おのれを持つこと→状態にあること」という形で→で結ばれているけれども、より根源的には「自己を保持すること→有ること」だと理解できそうです。

また、この本の別の箇所では、こちらはハビトゥスとは直接関係ないけれども、「存在の三項図式」というのが登場します。

それは、ラテン語の動詞から本質を抽出されたような概念については次のような「三項図式」で理解すると出発点として理解しやすいというものです。

たとえば、生命(vita) - 生きること(vivere) - 生物(vivens)、光(lux) - 光ること(lucere) - 光るもの(lucens)、等が三項図式の例で、著者は存在、本質、普遍を論ずる手がかりとして「存在の三項図式」、本質(essentia) - 存在(esse) - 存在者(ens)を導入しています。

さて、「存在の三項図式」の方については、本の方を参照していただくことにして、ハビトゥスです。この本にはそう書かれているわけではないけど、ハビトゥスを三項図式で書くとその意味がはっきりしてくる気がします。

すなわち habitus - se habere - habens.

つまり habitus とは、「自己を保持すること se habere 」の本質、「自己を保持すること」性であると理解できます。

この本の前半部分を参照するなら、habitus に「己有性」なんて訳語をあててもいいかもしれません(笑)。

わたしとしては、これで、「態度云々」といった通常の意味からだいぶ理解が進んだ感じがします。

でも、まだ疑問はのこります。たとえば、本文にあるように habitus は privatio に「先行するもの」なのかとか、フランコはどの程度同時代の哲学者とハビトゥスについての理解を共有していたのかというような疑問です。

でもここから先は邪推のようなものになりそうなので、ここでやめることにしましょう。
posted by まうかめ堂 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世音楽

2008年05月25日

Oldfield & Zappa

数日前、渋谷のタワレコに行ったときに掘り出し物を二点見付けました.

一つめはマイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズの Part 1 をピアノ二台&シンセサイザー二台、あるいはピアノ4台でやったディスク。(しかも760円。)
もう一つは Ensemble Modern plays Frank Zappa というディスクです。(セール中990円。)

まず一枚目。マイク・オールドフィールドのチューブラー・ベルズと言ってわかる人がどれくらいいるかわかりませんが、映画「エクソシスト」でさわりが使われているので聴けば「あ、あの曲か」とわかる人が多いかもしれません。
この曲はいろんな意味で特異な曲で、その先鋭性からプログレに分類されることが多いようですが、長大な二部構成の曲(それぞれの部分が20分超、つまりLPの両面で一曲と考えた方が良い曲)で、しかも一説によると2300回を越える多重録音でレコーディングされており、数十種類におよぶ楽器の大半をマイク・オールドフィールド一人で演奏しているというものです。

またマイク・オールドフィールドはヴァージンレコードの第一号アーティストであり、19才のときに一年余りを費し完成させたこのLPがいきなり全英一位になり現在までに全世界で1700万枚以上売れているという怪物的なレコードでした。

それで、このピアノ版、まうかめ堂的にはかなりのヒットです。まず、よりによってチューブラー・ベルズをピアノでやろうという発想が秀逸です。そして演奏それ自体もマイク・オールドフィールドのファンを十二分に納得させられる高い水準の出来栄えになっています。そう、プログレに限らずロックの曲なんかをクラッシック系の演奏者がなかばその人の偏愛から取り上げてるような演奏は、しばしば大きく外すことがあるのですが、これはまったくそうでないですね。原曲の本質をしっかり捉えた上で表現手段を変えることで作品を違った角度から照らし出すものになっています。しかも渋谷のタワレコで760円。というわけで非常に良い買いものをしました。

二枚目のザッパもまうかめ堂的には大ヒットなディスクですね。「現代音楽」の演奏家がフランク・ザッパを演奏したディスクというと、Boulez conducts Frank Zappa というディスクを思い出しますが、あれはケッタイなディスクでした。ザッパの奇妙な小規模アンサンブル向け「現代曲」をブーレーズが手兵のアンサンブル・アンテルコンタンポランに演奏させてるCDで、ザッパはストラビやヴァレーズの崇拝者だというだけあって「フツーの現代音楽」を書いても面白いことは面白いんだけど何曲も聴かされるとちょっと…というかんじのものでした。

一方こちらは、ザッパのよりメジャーな曲をクラッシックの小規模アンサンブル向けにアレンジしたもので、アレンジが非常に素晴らしく全然違和感がないばかりか、むしろこの表現形態こそ正解なんじゃないかと思えてくるほどです。(違和感の無い理由の一つは、曲によってはエレキベースをよく効かせていることかもしれません。)
しかし、改めてザッパの発散しきってる才能には驚嘆させられますね。まさに hyper creative とでも言うべきでしょうか。20世紀末にもこれほどまでにヴァイタルな才能が出現しえたということは、21世紀にとっても一つに希望かもしれません。
posted by まうかめ堂 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世以外の音楽

2008年02月03日

リヒテルのウェーベルン

数日前タワレコに行きました。クロード・エルフェの「夜のガスパール」のディスクはないかと思って行ったのですが、エルフェは見当たらず、で、かわりにポゴレリチを買って帰ったのですが、そこでリヒテルの少しあやしげなライブ録音のディスクを発見。

リヒテルの20世紀ピアノ曲の二枚組です。

一枚目はプロコやストラビで、まあ、その曲の並びは想像しうる範囲内でしたが、二枚目にはなんとウェーベルンやシマノフスキが収録されています。

で、このディスク、試聴できるようになっていて、しかもタワレコの店員さんもわかってますね、二枚目が聴けるようになってました。

おそるおそるウェーベルンを聴いてみると…。

こんな演奏はアリなんだろうか、一言でいうと「濃い!」
こんなに「感情豊か」にたっぷりな演奏は聴いたことがないです。

ウェーベルンの作品には楽譜の最後に作曲者自身による演奏時間の目安が書かれていることが多いのですが、大抵それは目安になっていません。つまり、作曲者の指定したテンポで演奏するとそんなにはかからないだろうという時間が書かれています。

この曲も三楽章合わせて10分と書かれていますが、7分前後で終わってしまうのが普通でしょう。

ところが、リヒテルは本当に10分でやってました。

ロマン派の曲でもそこまでやったら今では大仰だと言われるような演奏をウェーベルンでやってます。こちらの想像の範囲を見事に越えてましたね。

一体これは何なんだろうと考えてみるに、後期ロマン派からシェーンベルクを経てその先にウェーベルンがいると思ってそちらの側から(セリーの側からでなく)やるとこうなるのかなとも思いました。

でも、やりすぎではないかと…。面白いけど。
posted by まうかめ堂 at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世以外の音楽

2008年02月02日

「夜のガスパール」

わけあってこのところラヴェルのピアノ曲をよく聴いています。
(ラヴェルのピアノ曲はスタンコお嬢さんがCDを沢山もっているのでごっそりと借りてきて聴いています。)

なんで突然ラヴェルのピアノ曲というと、メシアンの本を読むためで、もともとラヴェルにすごく興味があるというわけではなくて、むしろメシアンがラヴェルをどう読んでいたのかの方に興味があります。

とはいうものの、ラヴェル自体に関心がないわけではないです。ラヴェルのピアノ曲に関してはパッと見の甘さや官能性に目を奪われていると間違いで、また、ラヴェルはオーケストレイションの達人でもありオケ曲も傑作ぞろいですが、より自由に冒険できたのはむしろピアノ曲の方であっただろうという感じがしているので、その辺り一度きちんと見ておきたいというのがあって聴いています。

で、いきなりですが「夜のガスパール」です。(私の場合、最も singular なものから始める傾向が強いですね。)

スタンコお嬢さんから借りてきたCDを聴き、さらに楽譜を仕入れてきて見て一言「えらいことになってる…。」

技術的な難しさもさることながら(この曲の演奏を聴くというのは、オリンピックを見るようなものですね)、問題は内容的な難しさの方でしょう。

微妙なバランスで宙に浮かせながら物を運ぶようなというか、不安定な停留点に沿って進み続けなければならないというか、どの方向にもちょっとでも転ぶと壊れてしまうようなデリケートさがありますね。

しかもなかなか正体を見せてくれないというか、きらびやかなヴェールの中に本体がいるみたいに思ってヴェールをはがしてみるとそこには何もなくて、ではヴェールの方が本体だったのかと思うとやっぱり中に何かいるみたいに見える、不思議な曲です。

しかし、こんな難曲でもすごい演奏を聴かせてくれるピアニストの方々がいるもので、それらについて勝手ながらランキング形式で感想を述べたいと思います。

1.アルゲリッチ(’75)
これ以上の演奏はなかなか存在しにくいのではないかという演奏ですね。ものすごく精密で繊細なことを、驚くべき精度でやりきっている感じがします。つまり、本当に美しく繊細でありながら、その核においてはきっちり分析的に音楽をとらえていて、その仮想的音像を寸分違わず現実の音として実現してみせている感じがするのです。

特に始めの二曲「オンディーヌ」と「絞首台」は、1000分の1ミリの精度でものを作っているような緊張感があり、「スカルボ」では幾分解放に向かうのだけど、その瞬間にフッと女性的なところが見えてきて、それがまた魅力的に感じます。

2.マガロフ(’69)
きっとほとんど知られていない演奏ですね。ライブ録音です。
アルゲリッチとは対照的に、作りこんで作りこんでという風でなく、手持ちのレパートリーをその日その場の空気に乗ってなかば即興的にという感じなのですが、この迫力、圧巻です。まさに貫禄ですね。

3.ポゴレリチ(’83)
ものすごい enfant terrible、モーツァルトと同じで天使か悪魔かわからない(でも悪魔のほうがちょっと多めの)ような演奏です。すさまじいですね。別の宇宙の音楽を聴いているみたいです。この底知れなさはなんとも形容しがたいですね。

4.ギーゼキング(’37-'38)
録音の古さもあって、深い霧の中から聞こえてくるような「オンディーヌ」が幻想的です。また、このスピードとキレのよさは、生で聴けたらどんなにいいだろうなと思うような演奏です。

5.フランソワ(’67)
某レコ芸関係の本のランキングではアルゲリッチに次いで二位にランキングされてたりする演奏ですが、こんなに下になってしまいました。なんというか力でねじ伏せてる感があるんですね。「クープランの墓」はすごくいいんだけど、「夜のガスパール」は好みでないということになっています。

posted by まうかめ堂 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 中世以外の音楽

2008年01月27日

「春の祭典」からマショー、デュファイを参照するブーレーズ

ブーレーズと中世音楽について書き散らかすのも、今回で最後となる予定です。

今回は、超有名な「はるさい」の分析論文『ストラヴィンスキーは生きている』(これも「ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書」ピエール・ブーレーズ著、船山隆、笠羽映子訳所収)の一節についてです。

これはストラヴィンスキーの『春の祭典』の主にリズム構造に関する詳細な分析論文ですが、この論文には個人的な思い入れが非常に強いです。

ここは、私のブログなので、私が個人的な話をしても悪いことはないでしょう、ということで少し個人的な話をします。

多くの人は若いころに良い意味で世界観をひっくり返すような衝撃的なものに出会うものと思いますが、それが私の場合はストラビの『春の祭典』でした。

14歳のころ、とある6月の日曜日に、ほとんどジャケ買いをしたショルティのLP(そう、ぎりぎりLPです!)を聴いてあまりのショックにまさに茫然となったのがそもそものはじまりです。

それ以来世界が『春の祭典』を中心に回り始めるのですが、当時すごくもどかしかったのは、その強烈な思いを表現するための言語を全く持たなかったことです。

そういうもやもやした状態がその後何年も続きましたが、後に渋谷のYAMAHAでフルスコアを入手、これで事態は解決するかと思いきや、困難は深まるばかりでした。

すなわち、スコアには全てが書かれているはずなのに、実際手をのばせば音楽そのものに触れることさえできるのに、その音楽のもつ真の力を捕まえることができないという、さらなるもどかしさに直面したのです。

ほどなく船山隆著「ストラヴィンスキー」を読み、ブーレーズの論文のことを知ります。そしてその半年後ぐらいにようやくこの論文集を入手します。
書泉グランデで見付けたときに思わず「あった!」と叫んだ記憶があります。

で、その後しばらく、この本をまさにむさぼるように読みました。後にも先にもあんな読み方をしたことはないでしょうね。本当に若かったです。

そして、この「はるさい」の論文も期待に違わずすごく衝撃的でしたが、その話をしはじめると今回それだけで終わってしまいますのでそれはパス。

でも、一言だけいうなら、パッと見「野性」と形容しうる強烈な音響と強烈なリズムからなるこの曲の、厚い神秘のヴェールに覆われているかのようなヴァイタリティーでさえ、極めて整然とした、「理性的な」分析によって語りうるのだ、ということが最も衝撃的なことでした。しかもブーレーズは音楽自体から決してブレません。

さて、ようやく本題に入れます。
今回取り上げたいのは、この論考のまさに本論が終わったその後にかかれた「後記」の部分です。そこでは唐突に(というか最初に読んだときは本当に唐突に感じたということなのですが)、ド・ヴィトリ、マショー、デュファイの名とともにアイソリズム・モテトが言及されるのです。

まずはその導入部分から。
人々は、リズムに対するわれわれのかくも一方的な姿勢を非難したり、あるいはわれわれがリズムに与える過大な重要性に驚いたりするかもしれない。事実、われわれにとって語法の問題自体は、セリー技法の採用ーそれは次第に普及したーによって、以前よりもはるかに解決に近づいているように思われる。したがって本質的な課題は、一つの均衡を回復することである。あらゆる音楽研究分野のかたわらにあって、実際、リズムの浴している恩恵といえば、誰もが常識的な教則本の中に見いだせるようなきわめて簡略な観念でしかない。そこに見いだすべきなのは、単に教育的欠陥だけだろうか?いっそう正当に次のことが考えられる。すなわち、ルネッサンス末期以降、リズムは他の音楽構成要素と同等には考えられなくなり、直観や良い趣味に過分な分け前が与えられるようになったということである。

たしかに、いわゆるフツーのクラシック音楽を聴いてるだけだと、ルネサンス以前、とりわけ中世にリズムに関してあんなことが行われていたなんて知りえないですからね。
われわれ西欧の音楽において、リズムに対するもっとも理性的な姿勢を見いだそうとすれば、フィリップ・ド・ヴィトリ、ギョーム・ド・マショー、ギョーム・デュファイの名を引き合いにださなければならない。彼らのアイソリズム・モテトは、カデンツに含まれる様々なゼクエンツに対するリズム構造の構築的な価値を断固として証明するものである。現代の諸探求にとってこの時代のそれ以上にすぐれた先例が求められようか。音楽は、この時代においては、単に一つの芸術としてのみならず、同時に一つの学問として考えられていた。つまりそのことによって、あらゆる種類の安易な誤解は(少なからず安易なスコラ学は永続したにせよ)回避されていたのである。

ここでギョーム・ド・ヴァンのデュファイ作品集の序文からの引用が入った後に
したがって、現代の多くの聴き手にとって、また多くの作曲家にとってさえ考えられないように思われることが明らかとなる。つまり、それらのモテトのリズム構造は書く行為(エクリチュール)に先立って存在していたということである。そこに見られるのは、単に分離現象だけではなく、まさしく、17世紀以来西欧音楽の発展を通じてわれわれが守っているのとは正反対の方法である。

まさにセリー音楽において、例えば音高の組合せがあらかじめセリーによって決められているように、アイソリズム・モテトで最初に与えられ/与えるのは定旋律と各声部のリズム構造です。

この際の作曲の具体的プロセスは、定旋律によって陰に規定されている和声構造にしたがって各声部に音を配分していくような作業になることが容易に予想されます。

にもかかわらずマショー、デュファイのアイソリズム・モテトの獲得している自由さと自発性には聴くたびに驚かされます。その驚きは作品の構造についての理解が深まれば深まるほど、より大きくなっていく種類のものです。

さあ、ここで、上で引用を省略したギョーム・ド・ヴァンの言葉を引くのが良いかもしれません。
ギョーム・ド・ヴァンは、デュファイの作品集の序文で次のように述べている。「アイソリズム法は、十四世紀の音楽理想のもっとも洗練された表現であり、ごく少数の人々によってだけ洞察されることが出来、作曲家の技倆に関する至上の証明の基礎となっていた本質であった。…諸処の束縛が、リズム構造のもっとも微細な部分をもあらかじめ決定する一つのプランがもつ厳格な次元によって課せられていた。しかしそれらの束縛は、少しもこのカンブレ人の霊感に限界を与えはしなかった。というのも、彼のモテトは、アイソリズム・カノンが事実厳密に守られているにもかかわらず、自由で自発的な作品という印象を与えるからである。デュファイの作品を十四世紀の諸作全体(マショーの作品を除く)から区別しているのは、まさに旋律とリズム構造のあいだに成立している調和のとれた均衡である。」

今後は、いくつかのアイソリズム・モテトについて分析的なことをやってみることにしましょうか。
posted by まうかめ堂 at 22:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 中世音楽